加藤眞悟

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蝉丸の順逆論

『蝉丸』の順逆論——境界に立つ者たちの思想——
                                加藤眞悟

 能『蝉丸』には、私が以前から強く惹かれている場面があります。逆髪の宮が語る、いわゆる「順逆論」です。「花の種は地に埋もつて千林の梢に上り、月の影は天にかゝつて万水の底に沈む。是等をば皆何れか順と見逆なりと謂はん」花は地の下から天へ伸び、月は天にありながら水底に映る。上が順で下が逆とは限らない。順と逆は、見る場所によって反転する——。逆髪はそう語ります。

 ここには単なる逆説以上のものがあります。人は普段、「貴が順、賤が逆」、「正常が順、狂気が逆」、「都が順、辺土が逆」という秩序感覚の中で生きています。しかし逆髪は、その価値観そのものを揺さぶります。この構造は、どこか ソクラテス の「産婆術」に似ている気がします。

 ソクラテスは、真実と思っていたことの対し疑問を持ち続け、「本当にそうなのか?」と問い続けることで、人の固定観念を崩していきました。『蝉丸』の順逆論もまた、観客の思い込みを反転させる力があります。ただ、『蝉丸』の背景にあるのは、中世仏教的な無常観が根底にあると思います。人間が作った秩序そのものは実は仮のものである、という感覚です。

 そして重要なのは、この順逆論が「逢坂山」で語られることです。逆髪は自らを「邉土遠境の狂人なり」と語ります。ここでいう「邉土遠境」とは、単なる田舎ではありません。「都と辺境」、「此岸と彼岸」、「正気と狂気」、「生者と死者」、そうしたものが交わる「境界」のことではないでしょうか。
    
 逢坂山は、古代以来そのような土地でした。京と東国を結ぶ関所であり、人の往来とともに、漂泊者や異人、時には死霊の気配すら帯びる場所だったと思います。そこには古い道祖神的な信仰も感じます。道祖神は、村境や峠、辻、関などに祀られる境界の神です。逢坂山もまた、巨大な「あわい」の空間だったのでしょう。

 さらに中世になると、その境界性の上に「国家の関」という連想も重なります。能『田村』の坂上田村麻呂のような境界鎮護の英雄像。でも、逢坂山と坂上田村麻呂信仰を直接結びつける史料があるわけではありません。これは史実の断定ではなく、中世的な境界空間をめぐる一つの想像です。けれど、この視点から見ると、『蝉丸』もより関の視点が明確に見えてきます。

 お盲目の皇子・蝉丸も、異形の狂女・逆髪も、社会秩序の外へ押し出された存在です。しかし彼らは「境界」に立つ者だからこそ、世界の順逆を問い返す。『蝉丸』とは、境界に立たされた者たちが、社会の価値観そのものを静かに照らし返してくる能なのかもしれません。

 次号では、この境界の地での別離が何を意味するのかを考えます」という一文を「順逆論」篇の末尾に添える。読者が自然に次号を待つ流れになります。

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