加藤眞悟

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『隅田川』と『弱法師』父への敬愛とこの世での解決を希求する元雅

『隅田川』・『弱法師』父への敬愛とこの世での解決を希求する元雅

     真葛が原の露と世に 身を怨みてや明け暮れん (隅田川より)
                                  加藤眞悟

父と子の分岐点「二人の対比」
 世阿弥と元雅は、共に社会の不条理を見つめ作能しました。
 世阿弥はこの世の不条理をあの世で解決しようとしました。夢幻能という様式によって、現世に留まる魂を死後のユートピアへと導く。『清経』も『采女』も、供養と芸術の力によって西方浄土へと向かいます。
 元雅はこの世の不条理をこの世で解決しようとしました。救済を彼岸に求めず、がんじがらめのこの世の只中に、不条理をドラマとして提示し、すでに答えを置く。この点が、父と子のもっとも根本的な分岐点ではないかと思われます。

真葛が原「がんじがらめのこの世」
 『隅田川』のカケリ(狂乱の舞)を挟んで、母はこう言います。

       聞くや如何に、上の空なる風だにも、松に音する習いあり。
        〈翔(カケリ)〉
              真葛が原の露の世に、身を怨みてや、明け暮れん。

 「真葛が原」の葛は蔓草です。地面を這い、からみ合い、引っ張り合う。切っても切れない人間関係、逃れようのない運命の絡み合い。子を失った母が立つ場所は、がんじがらめのこの世そのものです。
 そのがんじがらめの中で、母は「身を怨みてや、明け暮れん」と言います。怨みながら、それでもこの世に留まって夜明けを迎え続ける。元雅はここに、逃げない人間の姿を置きました。

露に月が映っている「この世の只中の真実」
 しかし元雅はそこで終わりません。「真葛が原の露の世に」にある露は単なる儚さの比喩ではないように思われます。
 露には月が映ります。そして闇夜の月は地獄の光の意味がかかります。つまり月は仏や真実の象徴です。「露の世に」とは、このがんじがらめのこの世のすべての露の中に、すでに仏の真実が宿っているという意味とも読めるのではないでしょうか。父の西方浄土をこの世の仏に置き換えているとも言えます。
 救済は彼岸にあるのではない。真葛が原の一粒一粒の露の中にすでにある。元雅は心の状態を示すカケリに、この結論ともいうべき言葉で描きます。これが世阿弥の夢幻能の構造と、決定的に異なる元雅の眼差しではないでしょうか。

『隅田川』東の果ての現実
 元雅が『隅田川』の舞台を東の果てに置いたことも、この思想と深く結びついているように思われます。
 西は浄土、救済、父の世界です。東はその対極である現実と不条理、この世の果てです。元雅は意図的に東の果てを選びました。救済の手の届かない場所に物語を置きました。
 しかし、東の果てには朝日が昇ります。子の念仏の声は、あの世からではなく、この世の夜明けの光の中から聞こえてきます。東の果て、がんじがらめの現実の只中。そこに元雅は真実を置きました。

『弱法師』心眼で見る現実の西
 『弱法師』の俊徳丸は盲目です。しかし、心眼によって、淡路、絵島、須磨、明石、紀の海という実在する西の風景を鮮やかに捉えます。その心眼で見たものは、西方浄土という抽象的な彼岸ではなく、波の音や潮の香りを伴う「今ここにある西」の現実世界の再現でした。
 精神の飛翔と盲目という肉体の転落を同時に舞台に乗せる。この残酷なリアリズムこそが元雅の「この世で解決する」覚悟の表れかもしれません。

おわりに「父と子、二つの誠実さ」
 世阿弥と元雅の違いは、対立ではないと思えます。父への敬愛がみて取れます。『隅田川』ではカケリの前の「松に音する習いあり」は父の『松風』が習いになっていると良い、『弱法師』では、心眼で見る景色を「住吉の松の隙より眺むれば」と父の『高砂』の隙間から(世界を)眺めてみたらと父の作品への敬意を表しています。この世の不条理をあの世で解決しようとした父の眼差しも、この世の只中に答えを置こうとした子の眼差しも、それぞれに人間の苦しみへの深い誠実さから生まれています。
 真葛が原の露に月が映っている。がんじがらめのこの世の只中に、すでに仏の真実がある。この元雅の確信は、六百年を経た今も『隅田川』の舞台の上で静かに生き続けているように思われます。

2026年4月22日記  明之會論考

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