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みんな燃えたんだ よこはま能の会に向けて
「みんな燃えたんだ」――平塚の杜から長崎の空へ
加藤眞悟
平塚八幡の杜で――宮司様の言葉
もう十年以上前になりますが、平塚八幡宮の神事能を二十年ほど承っておりました。直会の席で当時の宮司様が「平塚は空襲で焼け野原になった。それを忘れてはならない。語り継ぐことが大事なので、神事能は広く戦火に散った魂に報いるために、平塚大空襲の日ではなく、広島原爆投下の日に毎年開催する」とおっしゃっていました。今もその言葉が深く胸に残っています。
平塚市は一九四五年七月十六日深夜、B29爆撃機百三十三機による空襲を受けました。投下された焼夷弾は約四十四万発。死者三百六十二人以上、罹災者は当時人口の六十%を超える三万五千人以上。全焼戸数八千二百三十六戸―爆撃中心点は旧飯島デパート(現まちかど広場)付近、七夕飾りで賑わうこの街の真ん中でした。
平塚生まれの私は、子供の頃、砂地で遊んでいると焼夷弾の残骸がよく出てきました。何も知らずに掘って見つけては喜んで遊んでいました。その後それが平塚大空襲の焼夷弾だと知った時、子供ながらも「みんな燃えたんだ」と思いました。父はシベリア抑留経験者でしたから、なぜ戦争が終わったのにシベリアに駆り出されるのかという戦争の不条理を感じて生きてきました。
地方都市に降り注いだ焼夷弾
名古屋、大阪、神戸、横浜、伊勢崎などの全国百二の中小都市が同じように焼夷弾による無差別爆撃を受けました。軍需工場があるからだけではない。市街地そのものを焼き尽くし、人々の生活基盤を崩壊させ、厭戦意識を広げる―それが「中小都市空襲」の戦略でした。
広島はあの八月六日の原爆の前にも空襲を受けていました。一九四五年三月十八日から十九日の艦載機空襲、四月三十日にはB29が小町に爆弾を投下され、十人の命が奪われていました。そして原爆投下時、爆心地では人体の一切を瞬時に蒸発させるほどの熱が放たれ、熱線は二キロ先の着衣をも発火させ、約十四万人もの命が一瞬のうちに奪われました。この命の数に、一人ひとりの営みがありました。
東京大空襲では、一九四五年三月十日未明、三百三十四機のB29が投下した二千トンの焼夷弾によって下町一帯が地獄と化しました。この一夜で約十万人が死亡。百万人以上が家を失い、二十六万七千棟の建物が灰燼に帰しました。
『長崎の郵便配達』を舞う想い
『長崎の郵便配達』は昨年八月に大分、広島県福山市と上演し、本年四月には佐渡での上演を予定しています。七月には四回目になります。
能『長崎の郵便配達』のワンシーンである、原爆投下の瞬時に「子供らが白き花びらの如く宙を舞い」のくだりは、思わず感情移入してしまい、涙なくして舞台に立っていられませんでした。
今は縁あって横浜に住んでおりますが、この横浜も空襲の戦火に見舞われました。
原爆と空襲とのちがいはあっても、失われた人の魂は同じです。いにしえに戦火に散った人の魂に寄り添いながら勤めさせて頂きたく存じます。
原爆は、未来に向けてのメッセージであり続けます。能の舞台とは、この世の人とあの世の人が一瞬交わる場所でもあります。今の時代を生きる私達と共にあのひとときに想いを馳せる舞台にできたらと存じます。