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采女の古層へ②美奈保之伝について
『采女』の小書「美奈保之伝」の大和言葉からの考察
加藤眞悟
この小書きの表記を初めて目にした時、誰もが何と読むのだろうと思うのではないでしょうか。「ミナホノデン」と知ると何か古のロマンのような響きを感じるのではないでしょうか。内容からすれば「水面(みなも)」であるのに、なぜあえて「美奈保」という万葉仮名を思わせる表記が選ばれているのか。その問いから私の考察は始まりました。
「美奈保」という表記の響き
万葉集において「美奈」という万葉仮名は、一貫して「水」に関わる概念を表すために用いられています。巻十四の「美奈能瀬河泊」、巻二十の「美奈曾己」、巻十七の「美奈宇良」——いずれも「美奈」で「水」を表しています。
一方「保」は「ほ」と読み、古語で「ほ」は「面」を意味します。「額の面」などと言うように、物事の表面を指す言葉です。水に関しては「水の面」すなわち「水面」を指します。だとすれば「美奈保」は「水の面」を万葉仮名で表記したものと解せます。
なぜ「水面」ではなく「美奈保」なのか
「水面」と書けば、どうしても「水」という漢字の持つ意味、「面」という漢字の持つ意味が先立ち、知的理解が優先されます。読み手は「水の表面」という概念的把握に至って終わりかもしれません。しかし「美奈保」と表記された時、読み手はまず漢字の意味から一時的に解放され、「みなほ」という音そのものが立ち上がってくるのではないでしょうか。その音が万葉集の世界へと誘う効果があるのでしょう。また平仮名文化が成熟する平安時代よりさらに古い、万葉集の時代——漢字を音の道具として自在に使いこなしていた古代の人々の感覚——へと、見る者は知らず知らずのうちに誘われます。
観世元章の改訂に寄せて
観世大夫十五代元章が明和の頃に創ったこの小書きは、単なる演出の短縮ではありません。元章は数多くの小書きを創作し、今日の能楽に多大な影響を残しています。この「美奈保之伝」にも、能という芸能の本質をどこに置くかという深い洞察が働いていたのでしょう。先人が遺してくれたこの小書きの意図を、私たちは舞台を通じて受け継いでいます。
『采女』からクリ・サシ・クセの省略
『采女』では、前場で春日大社の縁起(神木植樹、草木成仏、法華経の徳、藤原氏の氏神信仰など)が詳しく語られ、クリ・サシ・クセでは葛城王のエピソードとして采女の宮中奉仕(給仕、曲水の宴、地方豪族からの選抜など)が具体的に描写され、律令制下(奈良時代)の制度としての采女が強調されています。
しかし「美奈保之伝」では、春日大社縁起をほぼ全カットし、クリ・サシ・クセをほぼ省略することで、藤原氏中心の奈良時代的祝言性を排除し、采女制度の制度的側面を背景から剥ぎ落としています。その結果、物語は帝との個人的悲恋・失寵の絶望・猿沢の池への入水に徹底的に絞られます。
浮かび上がるもの
この省略によって際立つのは、「帰れない」采女の原始的な悲哀です。大和政権時代の采女は、地方豪族の娘として中央に人質的に留め置かれ、寵愛を得れば家門の栄達、失えば恥辱と帰郷不能の運命を背負っていました。奈良時代の律令制描写を削ぐことで、この大和政権期の本質的な側面が浮上するのではないでしょうか。雄略天皇の時代に残された二つの逸話から、そのことを考えてみたいと思います。
大和政権時代の采女——雄略天皇の逸話から見えるもの
少し美奈保之伝から離れますが大事なことですので述べさせていただきます。
律令制度が整う以前、大和政権下における采女のあり方をうかがわせるものとして、雄略天皇の時代の二つの逸話があるのではないでしょうか。『古事記』と『日本書紀』に残されたこれらの説話は、「美奈保之伝」が律令制的な描写を削ぎ落とした采女像と、どこか通じるものがあるように思われます。
言葉が命を救った采女——伊勢の三重采女の歌
『古事記』雄略天皇段に見える逸話です。天皇が伊勢の三重の采女に酒を献じさせたところ、杯に木の葉が入っているのに采女が気づかず、そのまま差し出してしまいました。天皇は怒り、采女を斬り殺そうとします。
しかし采女は、とっさにこう歌ったと伝えられています。
「美夜のとの 大殿の内に 行き合ひて 水こそまさらず あめのした 食すや君 命も 尽きずもがも ももしきの 大宮の内 千年にも 万代にも 絶えずもがも」
これは、「御殿の大殿の中でお目通りを賜り、水よりも勝るお酒を捧げます。天の下をお治めになる天皇よ、どうか御命が尽きることなく、多くの殿閣が立ち並ぶ大宮の中が、千年にも万代にも絶えることありませんように」という意味になります。
この歌によって天皇は采女の罪を許したとされます。ここで注目されるのは、采女が自らの置かれた状況を、天皇を讃える歌として表現したという点ではないでしょうか。そこには、後世の制度的な采女像からは見えにくくなる、「言葉によって自らを表現する」原初的な姿があるように思います。
采女をみだりに犯してはならない——もう一つの逸話
『日本書紀』雄略天皇二年三月条には、別の逸話が記されています。
天皇が吉野で狩りをされていた時、采女の童女が通りかかりました。これを見た臣下の凡河内香賜(おおしこうちのかだち)が、その采女に言い寄って関係を持ってしまいます。これを知った天皇は香賜を処刑しました。
この逸話が示しているのは、采女が単なる宮中の奉仕者ではなく、天皇に近侍する存在としての特別な立場にあったということではないでしょうか。みだりにこれに触れることが許されない——その背景には、采女の身分に伴う何らかの観念があったと考えられます。
二つの逸話が示すもの
二つの逸話は、采女という存在の両面を示しているように思います。一つは天皇への近さゆえに、言葉が直接その運命を左右し得ること。もう一つは、その近さゆえに、一度その関係を失えば、もはや戻る場所を持ち得ないこと。
「美奈保之伝」で律令制的な描写が削ぎ落とされた結果、かえって浮かび上がってくるのは、このような古代的な采女のあり方ではないでしょうか。猿沢の池に映る采女の姿には、言葉の才を持ちながらも、帰る場所を失った者の哀しみが重なっているように思われます。
「美奈保之伝」の上演形態の特徴
この小書きでは、クリサシクセが省略されますが、裾クセの文言が「とりわき忘れめや」から「さるにても忘れめや」へ歌い替えられ、序ノ舞では橋掛かりにゆき欄干越しに水面に映る姿を見る型が挿入され、水に濡れた体として袖を返さず、足拍子を踏まない舞が用いられます。これにより、采女の姿は水面に浮かぶ亡霊そのものとして、より静かに古代の風合いを濃く表しているように思います。
おわりに
序之舞の後のキリでは天皇家と藤原氏を寿ぐ詞章があり、その後「猿沢の池の面に、水滔々として波また悠々たり」と呪術的な言葉によって濁っていた池が浄化される文言が書かれています。入水して澱んでいた池が、この言葉によって完全に清らかになり、最後の「また波の底に入りにけり」は、清められた池の底に帰っていく、そんな暗示的な読み方もできるように思います。(詳しくはツクツク¡¡¡メルマガ3月11日配信世阿弥の思想「心の水」をご覧下さい)
舞台と客席が互いに照らし合う瞬間に、その「水の面」には演者とお客様の心にある何かを映し出せたら本望です。それが明之會の命名のゆかりです。 以上