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『采女』の古層へ(歴史好きの視点から)
【能楽随想】
美奈保之伝に宿る『采女』の古層へ――大和政権時代の采女像を再考する
加藤眞悟
先日のメルマガで『采女』における世阿弥の「心の水」の思想を綴りましたが、改めて小書き「美奈保之伝」(みなほのでん)に目を向けると、そこにはまた別の深層が浮かび上がってきます。
観世大夫十五代元章が創ったこの小書きは、ただの演出短縮ではなく、古代の風合いを意図的に濃縮したものだと感じます。
『采女』の小書「美奈保之伝」について考える前に、まず『采女』の古層へ、采女制度そのものについて整理しておきたいと思います。
采女制度の始原
采女の始原は、地方の国造家の女性が大和朝廷に貢進され、宗教的に中央の神の下に地神を服属させようとする試みに見いだせます。服従や贖罪を誓う人身貢進として献じられた采女が、大化改新以後に制度として定着したと考えられます。
伊集院葉子氏の研究によれば、采女の始原は6世紀のミヤケ(屯倉)を母胎としており、後に「大化改新」で制度化された存在であるとされています。また「カシワデ(膳司)」との共労関係の中にその本質が見いだされるという指摘もあります。
采女制度の二重構造
畿内の有力氏族から貢進された「氏女」に対し、地方から貢進されたのが「采女」でした。氏女は畿内貴族の子女であり、より上位の女官コースに進む可能性が開かれていたようです。一方、采女は地方豪族(郡司層)の出身で、その資格要件は「郡少領以上の姉妹か娘」と定められていました。五位に昇る際にも必ず外五位を経るなど、氏女とは異なる処遇を受けていたことが明らかにされています。
この二重構造は「中央対地方」の力学を反映しています。大和政権は地方豪族に采女貢進という形で従属関係を可視化させ、同時にその忠誠を確保しようとしたのでしょう。
雄略天皇の時代——熾烈な競争の只中で
雄略天皇の時代(5世紀後半)は、この力学が最も先鋭化した時期と言えます(因みに能『養老』はこの時代設定の物語です)。雄略天皇は、それまでの有力豪族との連合政権的な体制を専制的なものへと転換し、畿内の葛城氏、地方の吉備氏という二大豪族と戦ってこれを降しました。まさに「中央集権制を作る大和政権と地方豪族の熾烈な競争」の只中にあったのです。
『古事記』に伝わる雄略天皇と伊勢の采女の逸話は、この時代の采女のあり方を示しています。宴の席で過ちを犯し殺されかけた采女が、即興の歌で自らの命を救ったというこの話は、采女に求められたのが容姿だけでなく、言葉を操る才でもあったことを伝えています。采女が詠んだ四十五句の歌は、天皇の統治領域を天・東・鄙に配して讃え、杯に浮かんだ落葉を木の生命力と結びつけて酒を祝福する内容でした。
相互利益としての制度
采女制度は一方的な支配関係だけでなく、相互の利益にも支えられていました。地方豪族にとって娘の貢進は中央とのパイプを得る重要な手段であり、寵愛を得れば家門の栄達につながりました。敏達天皇の夫人となった伊勢の豪族大鹿氏の娘莵名子のような例もあったのです。
また采女を犯すことが厳しく禁じられていたことからも、彼女たちが単なる下級女官ではなく、ある種の神聖性を帯びた存在だったことが窺えます。
地方文化の流入
学術研究で重要なのは、采女が「貢進される時点ですでに地方の信仰のみならず地方の風俗歌をも宮廷に導入したと推定される」という指摘です。采女は地方の文化——言葉や歌、信仰——を中央に運び込む媒体だったのでしょう。
『万葉集』の多様多層な世界からは、そのような采女の活躍が読み取れるとも言われます。東国の素朴な歌、地方の風俗を伝える歌が宮廷に伝わり、やがて「大和言葉」の一部として編纂されていったと考えられます。
律令制による変質
しかし奈良時代に最盛期を迎えた采女は、次第に本来の性格を変化させます。発生当初の采女は古代巫女として神事を執行し、神妻として天皇の最側近で働き、時には皇子や皇女を生む例もありました。
ところが律令制が確立された7世紀以後には、天皇と豪族との間を結ぶという性格は薄れ、采女は新制度の中で下級女官として位置づけられます。大宝律令の後宮職員令によって制度化された采女は、宮内省配下の「采女司」が管理し、後宮十二司のうち水司に6名、膳司に60名が配属されることとなりました。9世紀になると地方からの召し出しは途絶え、制度は衰退します。
古層の采女が持っていた神聖さや、地方と中央を結ぶ媒介者的な役割、言葉を操る才人としての面影は、次第に希薄になっていったのでしょう。
了