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「般若」という名の祈りーー荒ぶる心の極致に叡智が宿る
第二稿
「般若」という名の祈り──荒ぶる心の極致に智慧が宿る
加藤 眞悟
前稿〈『波も砕けて』──道元の一句が開いた能・装束・北斎への視界〉では、道元の一句「波も砕けて光とぞなる」を手がかりに、砕ける瞬間にこそ光が顕現するという逆説を、能装束の立浪と北斎の波に辿りました。(本稿のみでもお読みいただけますが、前稿と併せてお読みいただくと、より深まりがございます)
今稿では、その逆説によってもう一つの気づきがありましたので、お伝えしたいと思います。能面の「般若」です。
一、「般若」という名の矛盾
能面の「般若」をご覧になったことがあるでしょうか。怒りと嫉妬に歪んだ女の形相、額に二本の角、見開いた金の眼、まさしく鬼の面ですがこれは結果です。その元を辿れば、ふとした心の空回りが、誰にも相談できなく、教えを請うこともなく鬼にまでなってしまったのです。
しかしその名「般若(プラジュニャー)」はサンスクリット語で深い叡智を意味します。なぜ、荒ぶる鬼の姿に「智慧」の名が付されたのか。長年、この逆説的な名について考えていました。講座などでは、成り切ると次のステージに上がり周りが違って見えてくると説明しておりましたが、それでも何か不完全であり、「約700年前からの回答のない命題です」とお話ししてきました。
前稿で辿った「波も砕けて」の逆説──砕けることで光が顕現する──を思い起こしたとき、この謎にようやく一つの光が帯びてきました。
二、武士の業と能の役割における判断
能を支えた武士たちのことを考えます。六道輪廻では人間界の下の修羅道に落ちる武士たち。戦場で人を殺めねばならぬ「濁り」の業を背負った者たちです。その職責ゆえに生じる葛藤や妄執がどれほど心をかき乱したことでしょう。その行為には追い詰められ、鬼となるほどの精神統一が必要だったことは誰もが推察できると思います。それは正に命が散る瞬間であり、「波も砕けて」の瞬間であったことでしょう。
その瞬間にこそ、絶望ではなく救済としての光が顕れると信じたかった。だからこそ、荒ぶる鬼の姿に「般若」という名が欲しかった。命の砕け散るその瞬間の心の極致を、智慧と呼びたかったのではないでしょうか。
ただし、その業を修羅能の武士の面、例えば「平太(へいた)」に直接担わせることをしませんでした。さすがに武士自身の姿のままでは、それは生々しい自己弁護に終始してしまうからです。そこで能は、人間の激しい情念に客観性を持たせるために、あえて「女性の愛執」という器へと振り替えました。女性の姿を借りて自らの業を客観化しようとしました。そして、砕け散る心の中にこそ光を見出す。それは、人を殺める戦場に生きた男たちが自らを救うための最終の望み、究極の「希望」だったのかもしれません。
三、「波も砕けて」との照応
道元の歌に戻ります。
濁りても 心の水に すむ月は 波も砕けて 光とぞなる
「濁りても」──業を背負いながらも。「波も砕けて」──心が極限まで砕け散っても。「光とぞなる」──その先に、月の光は宿る。(前稿で詳しくお話しさせて頂きました)
武士たちが般若の面に託した祈りと、道元の歌が指し示す逆説は、同じ場所を向いていたのかもしれません。砕けることを恐れることなく、砕けた先にこそ、光がある。
結びに
般若の面と向き合うたびに感じていた怒りと悲しみの力──それは単なる恐怖ではなかったように、思い至ります。女性の心だけでなく、人間の業の深さが、遥か彼方からやってきて、しかしどこか心が澄み渡るような光を帯びて、胸に迫ってくる感覚を持つことができるようになりました。
「砕ける」ことの先に光を見た道元の一句は、般若という名の祈りの中にも、静かに宿っていました。
この二篇〈「波も砕けて」──道元の一句が開いた能・装束・北斎への視界〉と〈「般若」という名の祈り──荒ぶる心の極致に智慧が宿る〉が皆様の心の水に静かな波紋を広げてくれたなら──それに過ぎる喜びはありません。
ここまで読んでくださいましてありがとうございました。 加藤眞悟拝