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「波も砕けて」ーー道元の一句が開いた能装束、北斎への視界
第一稿
「波も砕けて」──道元の一句が開いた能装束・北斎への視界
加藤眞悟
一、「波も砕けて」への気づき
道元禅師の御歌として伝えられる一首があります。
濁りても 心の水に すむ月は 波も砕けて 光とぞなる
この歌は、道元が越前に開いた永平寺での詠歌を収めた『傘松道詠』に収録されています。「傘松」とは永平寺の旧山号「傘松峰」に由来し、江戸時代の禅僧・面山瑞方によって編まれ、今日に伝えられました。なお、この一首には「坐禅」という題が付されています。
さて、「波も砕けて」という一句。多くは、「波が静まり、水面が澄んで月が映る」という静的なイメージで読んでいるようです。しかし、長年、能の詞章を覚え、装束に触れてくると、それだけでない景色が浮かんで来ました。
能装束の長絹(ちょうけん)の飾り紐を「胸露(むなつゆ)」と呼び、袖にも「露紐」がついています。自然界の露には月が映りますので、詞章の中でも、露は真実や仏法の象徴として用いられます。そのような感覚でこの歌に触れたとき、波が「砕ける」瞬間に飛び散る水滴の姿が、ふと浮かんできました。
波は心の揺らぎとみることができるし、起き上がる妄執なのかもしれません。それが自然の風雨にさらされ、やがて形を維持できなくなり、砕ける。すると無数の水滴となり、その一滴一滴に月が宿る。いわば「盃中の月」の世界観です。砕けたからこそ、心の揺らぎや妄執の一つ一つの想念に月が宿り、そこから光が無数に拡散し、輝き始める。
「砕ける」とは消失ではなく、光が顕現する瞬間──そのような発見につながりました。
二、能装束の「立浪」と共振する
この気づきを得たとき、脳裏に浮かんだのが能装束の「立浪(たつなみ)」の文様でした。半切(はんぎれ)などに頻繁に用いられるこの図案は、波が砕け、飛沫が立ち上る瞬間を意匠化したものです。
装束は、その演目の象徴的な意味をも表す図案が用いられます。「立浪」は、激しく動く心の状態であると同時に、その砕け散った先にある水滴に、永遠の美や真理を宿しているのかもしれません。「立浪」の文様は、すでに何百年も前から「波も砕けて光とぞなる」の世界を具現化していたのではないかと思いました。
この道元の歌は、能の舞台を貫く思想、美学につながるものとして、私の中で捉え直されました。
三、北斎の波とつながる
さらに、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」が浮かびました。あの巨大な波もまた、まさに「立浪」──今まさに砕けんとする一瞬を永遠化しています。
北斎の波は「砕ける瞬間の永遠性」を描いているように見えます。波が砕けてこそ、飛沫が光を反射し、その一つ一つが輝く。その美しさは、道元の歌と相通じると思いました。
北斎の波を見るたびに、直ぐには何か言葉では言い表せないあの感覚。それは、「砕けることによって光が生まれる」という道元の歌や「般若」だけでない、善悪表裏一体のような日本の芸術の深層構造に、無意識のうちに触れていたからなのかもしれません。
結びに
濁りても 心の水に すむ月は 波も砕けて 光とぞなる
道元の一句は、能装束の文様に、北斎の波に、すでに静かに宿っていました。そしてこの歌を改めて口ずさむとき、「砕ける」という言葉が、以前とは違う響きで胸に迫ってきます。
皆様の「心の水」に、この一文が静かな波紋を広げてくれましたなら──それに過ぎる喜びはありません。
ここまで読んでくださいましてありがとうございました。 加藤眞悟拝