加藤眞悟

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舞声根為 ある朝の気づき

    《舞は声を根となす》

――世阿弥『花鏡』の言葉から――
                                       加藤眞悟

〈ある朝の気づき〉
 世阿弥の『花鏡』に、「舞声為根(ぶしょういこん)」という章があります。読み下せば「舞は声を根となす」。この一節と、ある朝、改めて向き合いました。
 私は若い頃、師匠から「井筒」や「融」といった、若手にはなかなかつけてもらえぬ「舞もの」の演目を多く与えていただきました。一方で、謡については幾度となく厳しく直され、「謡の稽古をもっとしろ」と言われてきました。舞には恵まれながら、謡には長く苦悩していました。そのような来し方を経て、この言葉と向き合ったとき、一つの気づきが生まれました。

〈声は、最も個人に属するもの〉
 声は、人間の身体に最も深く根ざしたものです。骨格、共鳴腔の形、身体そのものが生み出す周波数と倍音は、どれほど稽古を重ねても、その人固有の響きとして残り続けます。私たちの世界では、発声や音色まで師匠に似せようとします。しかしどれほど近づけても、声の根底にある「その人の声」は消えません。それは生理学的な事実であり、同時に芸の本質でもあるのかと思います。
 ここに、思いがけぬ気づきが生まれました。『花鏡』の「舞は声を根となす」は、「舞は謡を根となす」ではなくて「舞は声を根となす」だったのです。声の本質は最も個によるものであり、そこから浮き立つ舞は、単なる技術の模倣を超えた「その人だけの花」となることになります。つまり、声を深く耕すことこそが、唯一無二の舞を咲かせるための、最も確かな道だということになります。
 世阿弥は「花」は「種」から咲くと説きました。声という種を深く耕してこそ、舞という花が開く。そう読むことができるのではないでしょうか。

〈一調二機三声――技術の重層構造〉
 そしてもう少し考えてみました。『花鏡』はその冒頭を「一調二機三声」という言葉で書き始めます。調(息・音の高低)、機(頃合い)、声(実際に発する声)。まず声を出すべき時には、時刻や天候に合わせて息や音の高低を調え、気を込めてタイミングを図り、声を出す。
 声は最後に置かれています。美しい声を持っていても、囃子の拍子が身体に入らず、場の機が読めなければ、その声は死んでしまう。一調二機三声は、詰まるところ稽古の果ての技術の体系とも感じています。技術は磨くことができます。しかし、技術の奥には、磨かれることでかえってその輪郭を明晰にする、消しようのない「個」という核が存在する。声は、技術と個性が交差する交点にあるのではないでしょうか。
 世阿弥の言葉を重ねると、「調・機(技術) → 声(技術×個性) → 舞(個性の花)」という重層構造が見えてきます。舞の稽古の時も同じ順番で足のハコビ、袖の一振りを行って来ました。すると稽古を重ね、謡と舞の技術を磨いて行くと、声という結節点を経た果てに、本当の舞の花が咲くという構造が見えてくるように思います。

〈師匠の厳しさは、愛〉
 「謡の稽古をしろ」と、何度も言われました。正直なところ、師匠に私の謡は好かれていないと感じていたこともありました。しかし、芸道の師は全ての弟子に希望を抱き、愛しています。その一方で芸は冷厳な世界です。「石橋」のように谷底からは這い上がって来るものしか弟子として真に育てないということを、「石橋」に触れる度に刷り込まれます。怖いことですが、期待の持てない弟子には何も言わないようになります。見捨てれば済むのですから。
 師匠が何度も私の謡を直し続けてくださったのは、もしかしたら舞の中に何か希望を抱いてもらえていた。声さえ育てば、その先に花が咲くと、信じてくださっていたのではないか。今はそう素直に思っています。厳しさの奥に、深い愛を感じています。
 現梅若万三郎師匠から入門の折に教えていただいた言葉があります。「この世界は、あゝそうか!と気がついた分だけ上手くなる」。習うだけの技術の習得ではなく、気づきの積み重ねが芸を育てる。その言葉は、今も私の宝物となっています。

〈稽古の果てに〉
 内弟子を卒業して二十年ほど経った頃、声にハリを持たせるように気をつけて、謡の稽古を心掛けました。高くハリのある声から謡いの声を作るというスタンダードに立ち戻ることが出来ました。以前ほど謡のことを言われなくなったようにも思います。この真意については推しはかるのはなかなか難しいところでありますが、私の声の陰影は、いつしか自分の芸の一部になってきたように思います。
 齢を重ね、様々な舞台や人生の経験を経ることは、声の響きにも確かな質の変化をもたらしたように感じます。生きることと芸は、最も深い根の部分でつながっているのだと思います。
 私の個人的なリサイタル公演の性格を持つ「明之會」は、今年で28回を迎えます。当初は空席も目立ちましたが、コロナ禍以降、国立能楽堂で毎年満席をいただいています。「舞もの」を多く据えた番組は、師匠の望みでもあり、私自身の光でもあります。そしてその長年の経緯がお客様に受け取っていただけたことかと思うとありがたくもあり、嬉しい限りです。

〈気づき〉
 そして、「舞は声を根となす」――その根は、私という、かけがえのない個そのものだということに改めて気づかせていただきました。世阿弥の言葉の「無主風」から「有主風」です。
 明之會にお越しくださる皆様のご期待に少しでも添えるよう、ここまで一心に精進してまいりました。満席のお客様が、その支えになってきたと感じています。ありがとうございます。

                                   精進あるのみです。
                                     2026年3月10日

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