mail magazine backnumber
メールマガジン バックナンバー
令和8年5月5日明之會に向けての事前講座(4/25)のご案内
5月5日明之會の事前講座(4/25)国立能楽堂大講義室、午後2時より
哲学科出身の加藤眞悟の思索的な文章
(もし関心がございましたら是非お目通しください)
世阿弥の作品思想「心の水」について
――明之會『采女』『隅田川』に寄せて―― 加藤眞悟
能『実盛』のロンギに現れる、「心の水の底清く、濁りを残し給うなよ」という一句。私はここに世阿弥の深遠な思想を感じます。心に「表層(水面)」と「下層(底)」という空間的な構造を見出しているのです。
心を水に喩える考え方は、有名な禅語「心如水」などにも見られます。また、鴨長明は『方丈記』の冒頭で「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と述べ、人の心の時間的な変化を描きました。
しかし、世阿弥の最大の特徴は、「流れ」よりも「心の底」という静的な空間表現を用いている点にあります。ここで問われているのは単なる感情の移ろいではなく、現代的に言えば、我々の根底にある「真の自我」や「自我意識の目覚め」ではないでしょうか。
少し話は飛躍しますが、この視点は近代ヨーロッパでデカルトが提示した「我思う、ゆえに我あり」という主体中心の認識構造とも、思想的に響き合うものがあります。直接の影響関係こそありませんが、外界の絶対的な力よりも主体の内面を問題とする点において、世阿弥の作品思想は非常に現代的であると言えます。
世阿弥は、『葵上』のような仏法による調伏(ちょうぶく)で劇的に救済される物語を好みませんでした。善悪の対立軸ではなく、僧の念仏は契機に過ぎず、最終的な変化はそれを受け取る側の心の状態、つまり精神的な階層の上昇にあると描きます。日本的美学の原点である「自然の中にある真理」に気づくことこそが、救済へと繋がるのです。
究極的に言えば、宗教は人間を紐解く文学であり、自然は世界の理を明かす科学です。世阿弥の作品は、自然の理に対する気づきが人間の心にどのような変容をもたらすかを緻密に描こうとしました。彼にとって救済とは外部から与えられるものではなく、内面的な自覚によってもたらされるものだったのです。
このように見てまいりますと、「心の底の水清く」という一句は、単なる美しい比喩ではなく、人間の存在構造そのものを示す思想的表現であることが理解されます。
そしてこの視点は、これから上演される『采女』『隅田川』を読み解く上でも重要な鍵となります。能が描く悲劇は、出来事の悲劇であると同時に、心の在り方を問い続ける精神の劇であり、鎮魂歌でもあるからです。
明之會の事前講座では、これらの視点を踏まえ、世阿弥作品に共通する「心の構造」の問題を、各曲との関係の中でさらに詳しく掘り下げてまいりたいと思います