加藤眞悟

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お囃子掛け声は裏拍

能のお稽古でしばしば耳にするのが、タイミングが合わない。
具体的には、謡の時の「ヤヲの間がどうしても合わない」という悩みです。多くの方は、自分に才能がないのではないかと感じ、そこで自信を失ってしまうことも少なくありません。しかし実際には、出来ない理由は能力の問題ではなく、これまで私たちが日常で使ってきた身体の回路が、能の身体と大きく異なることにあります。

一般的な音楽や日常動作は、合図を聞いて動く「表拍型」の身体で成り立っています。たとえば「セーノ、ハイ」という掛け声では、「ハイ」という明確な着地点に向かって全員が同時に動くため、特別な訓練がなくても自然に揃います。ところが能の掛け声「ヤ・ハン・ハア」は、同じようにゴール(謡い出し)は決まっているものの、その時刻が固定されておらず、声の呼吸の中で時間が生まれてきます。つまり、合図に反応するのではなく、同じ呼吸の流れの中に入る身体が必要になるのです。

さらに能の所作は、武道的身体に由来するナンバ歩き的な運動が基礎となっています。左右交互の反動を使って動く現代的な身体とは異なり、重心を保ったまま息の動きに従って静かに運ばれる身体です。この身体感覚に慣れていない段階では、裏拍の掛け声に合わせようとしても、どうしても早く出たり遅れたりしてしまいます。これは練習不足というより、これまでとは異なる身体の使い方に切り替わるまでの自然な過程といえるでしょう。

したがって稽古で最初に起こる「合わない」という経験は、むしろ正常な入口です。身体が新しい時間感覚に慣れてくるにつれて、ある時期から急に自然に合い始めることが多く、長く稽古を続けている方ほどこの変化を実感されています。能はタイミングを合わせる芸というより、同じ呼吸を共有する芸ともいえます。焦らず声と身体を共に動かしていくことが、結果として「ヤヲの間」を身につける最も確かな道なのです。

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