加藤眞悟

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妄想 『羽衣』は観阿弥の魂の鎮魂

『羽衣』観阿弥追悼の物語 加藤眞悟

 能『羽衣』は、漁師・白龍が天女の羽衣を盗み、天女に「疑いは人間にあり、天に偽りなし」と言われ、羽衣を返し、天女が月世界の舞を披露して天の宝を地上に振り施し天に帰る物語です。『羽衣』を勤めるうちに、この物語は、観阿弥(一三三三~一三八四)を讃える追悼能であり、吉野の天人伝承を三保の松原に織り直したものではないかと考えに至りました。しかし世阿弥(一三六三頃~一四四三)の作ではなく、観世元雅(一三九四頃~一四三〇頃)の遺児・越智観世が創作し、音阿弥(一四五〇頃~一五三二)の家系が継承した可能性があるのではないかと思います。

 『羽衣』の初出は一五二四年の上演記録です(『能楽史料集』)。室町時代中期、世阿弥の没後(一四四三年)から約八十年後のこの記録は、一五世紀中盤~後半(一四五〇~一五〇〇年代)の創作を示します。『能本作者註文』や『自家伝抄』は世阿弥の作としますが、江戸時代の編纂で不正確とされ、『申楽談儀』に『羽衣』の言及はありません。『羽衣』は、世阿弥の心理的深み(『井筒』)とは異なり、時代が下り、簡潔な構成が好まれるようになっていく越智観世の時代に生まれた可能性を感じます。元雅は一四三〇年頃、世阿弥存命中に亡くなり、元雅の遺児たちが越智観世として家を継ぎました。しかし、越智観世の家系は衰退し、音阿弥の家系が観世流を継承し、やがて越智観世を吸収しました。『羽衣』は、越智観世が創作し、音阿弥家系が継承した物語かもしれません。

 観阿弥は一三八四年、駿河の富士浅間神社で、演能後に足利氏の刺客により非業の死を遂げました(『竹友藻風会記』)。地方芸能であった猿楽を武家・公家の愛好芸に昇華させた観阿弥は、権力の影に倒れました。世阿弥にとって、父・観阿弥は芸の根源でした。『風姿花伝』で、観阿弥の豪快な舞を「花」と称え、その精神を継ぐ決意を記しています。元雅は、世阿弥の言うことを聞かない子で、夢幻能の継承には関心が薄く、『隅田川』『盛久』『歌占』など、この世の奇跡や人間の生き様を描く現実的作品を作りました。これらは世阿弥の夢幻能より、観阿弥のリアリズム作品のリメイクに近いものです。『羽衣』の舞台である三保の松原は、観阿弥の死の地に近く、追悼の想いを込めるのにふさわしい場所です。『萬葉集』に詠まれた(巻三-三一七)この場所は、駿河の「羽衣の松」や御穂神社の伝承で知られました(本居宣長『玉勝間』)。江戸時代、能『羽衣』から羽衣伝説を御穂神社で守りました。余談になりますが、現代に甦らせた『羽衣まつり』(三保松原文化財保存会、毎年十月)では、二世梅若万三郎が初めて天女を舞い、その想いを今に伝えます。

 『羽衣』の天女の「結婚しない」姿は、権力に屈しない猿楽の自由を表し、「疑いは人間にあり」は観阿弥の芸の真実性を示します。三保の松原は、結城座と支援者のつながりを映します。吉野の天人伝承(壬申の乱の衣笠山の天女)は『吉野天人』として結実しました。『吉野天人』の成立は、観世流入蔵曲(『能楽全書』)から一五世紀後半~一六世紀初頭(一四五〇~一五〇〇年代)と推測されます。越智観世や音阿弥は、この勝利の天女を清らかな舞に変え、三保の松原に織り直したと考えます。能の好きな天女の起源説である余呉湖の伝説(『近江国風土記』)は作品化されませんでした。 

 この追悼の想いは、世阿弥家系の他の物語にも見られます。『俊寛』は、鬼界ヶ島に配流された世阿弥の追憶を流人の孤独に重ね、世阿弥の佐渡流罪(一四三四年頃)の記憶を呼びます。『邯鄲』は、元雅の作ではありませんが、猿楽を暗示する仏道を願わない青年が、華やかな夢幻の枕に悟りを得ます。この悟りは、世阿弥の言うことを聞かず、足利幕府(足利義教)から嫌われた元雅の改心の象徴を映します。『羽衣』は、観阿弥を天女として讃え、権力から解き放たれた猿楽の精神を結晶させ、観阿弥の自由な魂を天に昇らせ、芸の真実を歌います。小西甚一は、能の物語が伝承と結びつくと述べます(『能楽の起源』一九七八年)。観世流の古記録(『能本作者付』)に確証はありませんが、『羽衣』は、越智観世が創作し、音阿弥家系が継承した観阿弥追悼の物語の可能性を感じます。 

 能『羽衣』を勤めていると夕陽に輝く蘇命路(赤富士)富士山に観阿弥の姿と世阿弥家系の想いを感じます。『羽衣』の詞章「天人の舞楽、世に伝ふる」には、観阿弥の芸が今も生き続ける願いが込められているようです。『俊寛』の流人の嘆きは世阿弥の苦難を、『邯鄲』の夢の儚さは元雅の人生を、そして『羽衣』の天女の清らかさは観阿弥の魂を物語り、これからも富士山を背に観阿弥を思い『羽衣』を勤め続けます。

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