ゆんみ/YUNMI

​ゆんみ / YUNMI​​​
ことばと手で、世界とつながる。

東京生まれ、東京育ち。

ろう者として育ち、やがてアメリカへ渡り、世界中のろう者たちと出会いました。

手話、英語、ろう教育、スポーツ、異文化、そして人との出会い。

振り返ってみると、私の人生はいつも、
「出会い」から次の世界へ広がってきました。​​

ここでは、「ゆんみ」がどこから来て、どんな人や文化と出会い、どうやって今の私になったのか。

私の歩いてきた道を、少し振り返ってみたいと思います(^^♪

私のルーツ​​

私は東京生まれ、東京育ち。

母は日本橋生まれ。
母方の祖母は神田、祖父は浅草生まれ。
母方はまさに、生粋の江戸っ子の家系です。

一方、父は上海生まれ。

父方の祖母はアメリカ・シアトル生まれの日系2世で、のちに日本へ帰化しました。
父方の祖父は広島生まれです。

そんな二つのルーツを持つ私は、日系4世。

東京の下町につながる江戸っ子のルーツと、海を越えた家族の歴史。

私が昔から海外や異文化に惹かれてきたことも、どこかこのルーツとつながっているのかもしれません。

そして後に、私自身もアメリカへ渡ることになります。

手話が、私の最初のことば​​

父も母も聞こえない家庭に生まれた私にとって、
第一言語は日本手話でした。

家の中では手話で楽しく話す。
それが私にとっては、ごく普通のことでした。

でも、実は家の中だけでもコミュニケーションの方法はいろいろ。

母と兄は難聴で、声を聞き取ることができたため口話も使っていました。
母や兄とは、声を出しながら手話で話す。
父とは、声を出さずに手話だけで話す。

聞こえる親戚とは口話で話しましたが、親戚同士の会話にはなかなか入れませんでした。

一方、両親のろうの友人たちが家に遊びに来る日は、とても楽しかった。

当時のテレビには今のような字幕もほとんどありません。

だから私にとって、手話で話せる大人たちとの会話は、知らないことをたくさん知ることのできる大切な時間でした。

手話のある場所では、私は会話の中にいられる。

手話は、私にとって単なるコミュニケーションの方法ではなく、
世界を知るための最初の扉だったのだと思います。

ろう学校で知った「違い」​​

3歳から、ろう学校へ通いました。

そこには私と同じように聞こえない子どもたちがいる。

当然みんな手話で話すと思っていたら――

みんな、手話を知らない。

私以外の子どもたちの親は聞こえるため、家庭では主に口話でコミュニケーションをしていました。

「親が聞こえないなんて、かわいそう」
「電話できないよね」

と言われたこともあります。

私は、

「???」

でした(笑)

私にとって、聞こえない両親との暮らしは「かわいそう」ではありません。

手話でいろいろなことを話せる。
それが楽しかったからです。

私は家で大人たちとたくさん話していたので、同級生より知っていることばや知識が多く、
​いつの間にか先生と同級生の間を通訳するようになっていました。

先生の説明を同級生に分かるように伝える。
同級生の言いたいことを理解して、先生に伝える。

でも、そのうち何でも私に質問されるようになりました。

私だって分からないことはあります。

「分からない」と言うと、

「なんで分からないの? 知っていると思ったのに」

と言われて傷ついたこともあります。

「私は先生じゃない。みんなと同じ子どもなのに。」

そのせいか、よく怒っていました(笑)

「おこりんぼ」と呼ばれたこともあります。

今振り返ると、幼い頃からすでに、異なるコミュニケーションの間に立って橋渡しをしていたのかもしれません。

YMCAで知った、もうひとつの世界​​

そんな私に新しい出会いがありました。

兄が通っていたYMCAのユースミニバスケットボールです。

私も入りたい!と参加しました。

そこで初めて大きな壁にぶつかります。

ろう学校では口話でもある程度通じたのに、聞こえる仲間には私の発音がなかなか伝わりません。

話すことが怖くなり、ことばが詰まるようにもなりました。

でも、YMCAの仲間たちは私を馬鹿にしませんでした。

一生懸命話せば、ちゃんと聞こうとしてくれる。
分からなければ、分かろうとしてくれる。

そこで気づきました。

「聞こえる人にも、いろいろな人がいるんだ。」

そして、

コミュニケーションの方法が違うなら、お互いに工夫すればいい。

自分から閉じてしまったら、相手にも伝わらない。

違いを受け止めながらやってみよう。

YMCAとの出会いは、私の考え方を大きく変えてくれました。

聞こえる学校、そしてもう一度ろう学校へ​​

YMCAでの経験から、「聞こえる学校へ行ってみたい」と思うようになり、小学5年生で聞こえる子どもたちが通う学校へ転校しました。

でも、YMCAとは違いました。

ある日、かけっこで男子に勝ったことをきっかけに、それまで普通に接していた男子たちから発音を馬鹿にされるようになりました。

聞こえないから?
女だから?
男子に勝ったから?

理由は分かりませんでした。

学校へ行くのが嫌になり、小学6年生では難聴学級のある学校へ転校しました。

それでも、大好きなYMCAだけは休まず通いました。

中学校への進学を前に、私は考えました。

聞こえる学校へ行くか。
ろう学校へ戻るか。

社会に出れば、周りのほとんどは聞こえる人になる。

だったら中学・高校の6年間くらい、
ろうの仲間たちと一緒に思いきり楽しもう。

そう考えて、自分の意思でろう学校へ戻りました。

中学生になる頃には同級生との会話も成り立ち、指文字や手話も使えるようになっていました。

学校生活は一気に楽しくなりました。

中学ではバレーボール部のキャプテンとしてV4を達成。
陸上では1000m優勝、400mリレーではアンカーを走って優勝。

高校では陸上部に入り、400mで銅メダル、高校2年生では障害者国体400mで銀メダル。

この頃は、とにかくスポーツに明け暮れていました。

「できない」のではなく、情報が届いていなかった​​

高校卒業後、私は進路に迷いました。

スポーツトレーナーになりたくて体育系大学を希望していましたが、周囲からは文系大学や、
​新しくできた筑波技術短期大学を勧められました。

でも、どうしても心が動かない。

最終的に選んだのは、父と同じ建築の道でした。

父は聞こえなくても、建築の技術を身につけ、その腕で生活していました。

「私も父のように、腕で生きていけるようになりたい。」

そう思い、父と同じ中央工学校へ進学しました。

ところが、そこには聞こえない私への情報保障がありませんでした。

入学前から手話通訳をお願いしていましたが、「授業の邪魔になる」と断られていました。

必死にノートを書き写し、自分でも勉強しました。

それでも最初のテストは40人中、下位。

悔しかった。

「私ができないんじゃない。情報が届いていないんだ。」

私は学校へ手紙を書き、分からないまま勉強を続けるのは嫌だと訴えました。

先生と話し合い、授業の助手に私の隣でノートテイクをしてもらうことになりました。

すると――

次のテストは2位。

情報がきちんと届けば、できる。

それを結果で証明することができました。

その後も勉強を続け、2年間の最後には優秀賞をいただいて卒業しました。

心の中にずっとあった、アメリカへ​​

卒業後は大成建設へ就職しました。

本当はアメリカへ行きたかった。

でも、その前に自分で働き、お金を稼ぐこと、お金のありがたみを知ってから行こうと思いました。

働いて、給料をもらい、いろいろなことを経験する。

それでも心の中には、

「なんかなあ……。」

という気持ちが残っていました。

やっぱり、アメリカへ行きたい。

シアトル生まれの日系2世の祖母を持つ私にとって、アメリカは自分のルーツにつながる場所でもあります。

2年間勤めた会社を退職し、私はついにアメリカへ。

ギャローデット大学のELI(English Language Institute)へ入学しました。

アメリカ初日。「何を言っているのか分からない!」

夜遅く、一人でタクシーに乗って大学の寮へ。

でも、その頃の私はまだASLがほとんど分かりません。

寮の受付では、相手が当然のようにASLで話しかけてきます。

……何を言っているのか全然分からない(笑)

筆談でやり取りし、ようやく部屋の鍵をもらいました。

翌日、食堂でスイスから来たルームメイトに出会いました。

知っている英語と、わずかに知っているASLを使って会話。

「8月」と言いたかったけれどASLが分からない。

そこで、日本語と同じ感覚で、

「8」+「月」

と表してみました。

すると相手が、

「AUG」

と教えてくれました。

「あっ、ASLではこう言うんだ!」

分からなければ、知っているものを使って伝えてみる。
相手が受け取り、新しい表現を教えてくれる。

私のアメリカ生活は、そんな小さなやり取りから始まりました。

世界の留学生たちと学んだ1年間​​

ELIでは、世界各国から来た留学生たちと過ごしました。

みんなアメリカ文化が分からない。
ASLもまだよく分からない。

だから、お互いに助け合いました。

分からなければ聞く。
伝わらなければ別の方法を試す。

一緒にアメリカ文化と異文化を学んだ1年間でした。

そのELI時代の最後、5月のギャローデット大学卒業式で、初めて正式に通訳の仕事を経験しました。

日本から来たVIPのための日本手話通訳です。

話者の内容をフィーダーがASLで伝え、それを私たちが日本手話へ通訳する。

そこで、情報の伝え方やフィーダーとの相性によって、通訳のしやすさが大きく変わることも学びました。

子どもの頃、先生と同級生の間で自然に通訳をしていた私が、今度はアメリカでASLと日本手話の間に立っていました。

本場のASL、そして「教える」道へ​​

その後、ギャローデット大学へ編入。

最初の授業では驚きました。

本場のASL、めちゃくちゃ速い! 分からん!(笑)

ELIでは留学生同士、ゆっくりしたASLや国際手話を交えながら話していました。

今度はASLを第一言語として使う人たちの世界。

ついていくのは大変でした。

また、ASLだけでなく、英語の語順に沿った手話表現(SEE)にも出会いました。

日本手話を第一言語とする私にはASLの方が読み取りやすく、SEEはまるで英文を目で読んでいるような感覚。

でも、英語の語彙力が上がるにつれて、SEEも理解できるようになりました。

大学ではスペイン語を専攻し、優秀学生としてTutorの仕事もしました。

大学3年生のとき、近くのろう学校から「日本文化を教えてほしい」と依頼され、日本手話、
​折り紙、日本文化を子どもたちに教えました。

そのとき、学校の先生から、

「先生にならない? あなたは向いていると思う。」

と言われました。

かつて持っていた「先生になりたい」という夢を思い出しました。

この一言が、予定になかった大学院進学への扉を開きました。

ユートピアを出て、ろう教育の世界へ​​

私は同じ場所にずっといるのが、あまり好きではありません。

慣れた場所は楽。
でも、新しい刺激が欲しい。

そこでギャローデット大学を離れ、サンフランシスコ州立大学大学院へ進学し、
​ろう教育学(Deaf Education)を学びました。

ギャローデット大学は、ろう者にとってのユートピア。

周りを見渡せば手話。
先生も学生も、お店でも手話。

一方、サンフランシスコ州立大学は聞こえる学生が中心です。

でも、そこには障害学生への情報保障があり、授業には2人の手話通訳者が手配されました。

驚いたのは、その専門性。

大学院以上の学位を持つ通訳者や、博士号を持つ通訳者までいました。

授業中、私が「???」という顔をすると、すぐに気づいてくれる。

私はろう者であると同時に留学生でもあります。

分からない原因が、聞こえないことではなく、英語の語彙そのものにあることも理解してくれました。

必要な語彙を説明してから授業の流れへ戻る。

「こんな通訳ができる人がいるんだ!」

情報保障は、ただ手話をつければいいのではない。
情報の質も大切なのだと知りました。

大学院ではさまざまな教育現場でインターンシップを経験しました。

修了後はギャローデット大学で築いたつながりから、ウィスコンシン州立ろう学校で長期代理教員として勤務。

その後はボストンにあるろう学校で教員として働きました。

一人ひとり異なる個性や特性を持つ子どもたちと向き合いながら、

「その子にどう伝えれば届くのか」

を考え続けた日々でした。

日本へ。そして、自分で仕事をつくる​​

2003年12月、体調を崩しました。

アメリカへ渡って以来、初めて、

「日本へ帰りたい。家族のそばにいたい。」

と思いました。

学校の理事長からも、

「今のあなたには家族が必要。ゆっくり休みなさい」

と3か月の猶予をいただきました。

でも、もうすぐ32歳。

私は退職し、日本へ帰ることを決めました。

帰国後は、英語を活かせる環境で約5年間働きました。

でも、また私の中から、

「やっぱり、一つの机の前でずっと仕事をするのは合わないなあ。」

という気持ちが(笑)

そこで思い切って、個人事業主として生きていくことを決めました。

独立後、最初に関わった大きな仕事は、香港中文大学の3年間のプロジェクト。

同じ頃、日本の大学でも教える仕事を始めました。

そして大学で教える中で、

「もっと自分らしい形で、ことばや文化を伝える仕事をしたい。」

と思うようになります。

そこで始めたのが、
Eyeth for Englishです。

ASL(アメリカ手話)やアメリカ英語を教えながら、ことばだけではなく、その背景にある文化や考え方まで伝える。

子どもの頃、家にやって来るろうの大人たちの手話から、世界を知った私。

今度は私が、誰かの世界を広げる側になりました。

そして今も、挑戦の途中​​

振り返ってみると、私の人生は一直線ではありませんでした。

ろう学校が嫌だった私が、自分からろう学校へ戻った。

スポーツトレーナーになりたかった私が、建築を学んだ。

建築を学んだ私が、アメリカへ渡り、スペイン語を専攻した。

そして、ろう教育を学び、先生になり、通訳を経験し、大学で教え、自分の事業を始めた。

一見バラバラに見える経験も、今振り返ると全部つながっています。

手話で人と話すこと。
違う文化を知ること。
伝わらなければ、別の方法を考えること。
人と人の間に立って、つなぐこと。

それは、子どもの頃からずっと変わっていません。

今はさらに、デフゴルフ、TEAM SODEYAMA、本や絵本など、新しい世界へ活動が広がっています。

でも、根っこにあるものは同じです。

ことばと手で、世界とつながる。

私自身も、まだ知らない世界がたくさんあります。

だからこれからも、出会って、学んで、挑戦して、
また次の世界を見に行きたいと思います。

これが「ゆんみ / YUNMI」です(^^♪

袖山由美(ゆんみ)

ゆんみの生い立ち