なぜ私は「教えるお茶」ではなく、「ひらくお茶」を選んだのか

私はずっと、お茶を「教えるもの」だと思えなかった。

作法や正解を覚えるよりも、一服の中で“自分に還る”感覚の方が、ずっと大事に思えていたからだ。


小さい頃の私は、喘息とアトピーで体が弱く、何度も入院していた。

「何もできない子」

家族からそう言われ続けて育った私は、いつの間にか「証明しなければならない人生」を生きるようになっていた。


中学・高校・大学はすべて美術系の私立校。

いわゆる“お嬢様学校”に通いながらも、私はいつも心のどこかで、

「肩書きや評価で人を測る世界」に強い違和感と憤りを感じていた。


10代、20代の私は、

「誰かに認められなければ意味がない」

そんな空気に息苦しさを覚えながらも、そこから抜け出す術が分からなかった。



化粧品メーカーで4年間働いたあと、私は単身でイギリスへ渡った。

ロンドンに1年半住んでいたその頃の私は、完全なコーヒー派だった。

それが、ある一杯の紅茶に救われた。


虚しさと孤独の中で、ホストファミリーの家で日々飲んでいた紅茶が、いつのまにか私の呼吸を「深く」していた。


あのとき、私は初めて、

「飲み物で、人生の速度が変わる」

という体験をしたのだと思う。


外から励ますことしかできない世界で、

お茶だけは、内側からそっと応援してくれる存在なのだと。



帰国後は外資系企業でマネジメント職に就き、

仕事の傍らでお茶の講座やアフタヌーンティー、マナーのレッスンを趣味で始めた。


けれど2年後、体と心が限界を迎えた。

上半身の皮膚はアレルギー反応を起こし、むけて、爛れて、血まみれになった。

薬も効かず、何をしても良くならない。


私はそこで、

「外側を整える前に、生き方を変えなければいけない」

と気づいた。


食、衣類、化粧品、思考、暮らし方。

すべてを見直し、完治までにかかったのは2〜3年という長い時間だった。


その過程で、私はオーガニックと出会った。

“整える”ということは、戦うことではなく、

「本来の自分に戻ること」なのだと、身体が教えてくれた。


肌が治っていなくても、私はアルバイトを3つ掛け持ちしながら生きていた。


生きて行くためでもあり、お金を貯めて、また世界とお茶を見に行くために。


その後インドやスリランカのオーガニック茶園まで巡った私が、

最終的にたどり着いたのは、日本の茶園だった。


そこにあったのは、派手さではなく、

静かで、深くて、祈りのような時間だった。


会社を作るつもりも、経営者になるつもりもなかったのに、

なぜか法人化し、気づけば9年、今も生き残っている。


私は今、

お茶を「教える人」ではなく、

お茶で“ひらく人”でありたいと思っている。


作法や正解を押し付けるのではなく、

一服の中で、その人がその人自身に還っていく時間をつくりたい。


それが、

CHAKYO|茶響

NEO茶道と私が呼んでいるものです。


お茶は知識ではなく、儀式。

一服は、魂に響く時間。


私は今日も、

お茶と呼吸で、誰かの“蕾”がひらく瞬間に立ち会いたいと思っています。

一覧