2026.02.03
なぜ私は「教えるお茶」ではなく、「ひらくお茶」を選んだのか
私はずっと、お茶を「教えるもの」だと思えなかった。
作法や正解を覚えるよりも、一服の中で“自分に還る”感覚の方が、ずっと大事に思えていたからだ。
小さい頃の私は、喘息とアトピーで体が弱く、何度も入院していた。
「何もできない子」
家族からそう言われ続けて育った私は、いつの間にか「証明しなければならない人生」を生きるようになっていた。
中学・高校・大学はすべて美術系の私立校。
いわゆる“お嬢様学校”に通いながらも、私はいつも心のどこかで、
「肩書きや評価で人を測る世界」に強い違和感と憤りを感じていた。
10代、20代の私は、
「誰かに認められなければ意味がない」
そんな空気に息苦しさを覚えながらも、そこから抜け出す術が分からなかった。
化粧品メーカーで4年間働いたあと、私は単身でイギリスへ渡った。
ロンドンに1年半住んでいたその頃の私は、完全なコーヒー派だった。
それが、ある一杯の紅茶に救われた。
虚しさと孤独の中で、ホストファミリーの家で日々飲んでいた紅茶が、いつのまにか私の呼吸を「深く」していた。
あのとき、私は初めて、
「飲み物で、人生の速度が変わる」
という体験をしたのだと思う。
外から励ますことしかできない世界で、
お茶だけは、内側からそっと応援してくれる存在なのだと。
帰国後は外資系企業でマネジメント職に就き、
仕事の傍らでお茶の講座やアフタヌーンティー、マナーのレッスンを趣味で始めた。
けれど2年後、体と心が限界を迎えた。
上半身の皮膚はアレルギー反応を起こし、むけて、爛れて、血まみれになった。
薬も効かず、何をしても良くならない。
私はそこで、
「外側を整える前に、生き方を変えなければいけない」
と気づいた。
食、衣類、化粧品、思考、暮らし方。
すべてを見直し、完治までにかかったのは2〜3年という長い時間だった。
その過程で、私はオーガニックと出会った。
“整える”ということは、戦うことではなく、
「本来の自分に戻ること」なのだと、身体が教えてくれた。
肌が治っていなくても、私はアルバイトを3つ掛け持ちしながら生きていた。
生きて行くためでもあり、お金を貯めて、また世界とお茶を見に行くために。
その後インドやスリランカのオーガニック茶園まで巡った私が、
最終的にたどり着いたのは、日本の茶園だった。
そこにあったのは、派手さではなく、
静かで、深くて、祈りのような時間だった。
会社を作るつもりも、経営者になるつもりもなかったのに、
なぜか法人化し、気づけば9年、今も生き残っている。
私は今、
お茶を「教える人」ではなく、
お茶で“ひらく人”でありたいと思っている。
作法や正解を押し付けるのではなく、
一服の中で、その人がその人自身に還っていく時間をつくりたい。
それが、
CHAKYO|茶響
NEO茶道と私が呼んでいるものです。
お茶は知識ではなく、儀式。
一服は、魂に響く時間。
私は今日も、
お茶と呼吸で、誰かの“蕾”がひらく瞬間に立ち会いたいと思っています。