2023年4月4日
From:奈良県橿原市
株式会社学習ジムコーチ 堀
1998 年 7 月照りつける夏の日差し中。湿った暑い空気が体にまとわりつく。奈良県大和郡山市で、3 年後に【閉鎖】してしまう、ある小さな塾が開業した。
場所は筒井駅から徒歩 1 分。塾の名前は「学習ジム・コーチ」
塾長は塾経営については、初めてだったものの子どもの指導には多少の自信はあった。
と言うのも学生時代には家庭教師を月 20 名指導した経験があったからだ。開業にはスタート時点で 100 万円。
指導するための機器 20 台。200 万円分が用意された。机もそろった。椅子もそろった。プリンターもそろった。
第1回目チラシの「不安」
あとは生徒が来るのを待つだけだ。第 1 回目の「夏期講習生徒募集」のチラシが配布された。
費用は 20 万円。チラシがまかれた。通常その日に反応があるものだが 1 件の問い合わせがあった。
まずはほっとした。その翌週。続いてチラシがまかれた。さらに問い合わせがあった。2 名の問い合わせがあった。合計 3 名。
しかし、その後、反応はなくなった。それまではそれほど不安はなかった。というのも塾経営 30 年のベテラン先生がコンサルタントとしてついてくれていたからだ。
コンサルタント料は月 5 万円。その支払いが不安になってきた。早速コンサルタントの先生に電話をした。
私 「××先生。大丈夫ですかね。これから生徒は集まってきますでしょうか?」
先生「堀先生。大丈夫ですって。まだまだこれからですよ」
私 「今 3 名ですね。その後は何も問い合わせがないですよね?」
先生「はい」
私 「この後チラシをまいた方がいいのでしょうか?」
先生「もう1回チラシを入れてみましょうか?」
私 「はい。お願いします」
先生「では」
7 月に集まった生徒はたった 3 名。売上にすると 6 万円。6 万円だと家賃+駐車場 8 万円の費用も出なかった。
3 回目のチラシがまかれた。それでも反応はなかった。結局、スタートはたった 3 名の夏期講習からスタートした。
実は不安になっていたのは私だけではなく、家内も同様だった。
家内「大丈夫なの?」
私 「大丈夫。大丈夫。××先生も大丈夫だと言ってくれたから」
家内「そう」
私 「やるだけやってみる」
夜に布団の中に入っても不安で眠れなかった。この寝苦しさは夏の暑さのせいだけではない。
湿った空気のように「集客への不安」が私にまとわりついた。寝られなかった。いつもは布団に入るとすぐに寝てしまうのに「3 名のままだったら」と不安が私をグイグイ押しつぶそうとした。
寝られない日々
夏期講習がスタートしてからはさらに寝られなくなった。「このままだったら」そう思うと「不安」がまるで大きな岩のようにのしかかった。
そして、不安は的中した。結局生徒は 3 名のまま 8 月下旬まで続いた。9 月に向けて 8 月下旬にチラシを巻いたものの、その後ようやく 2 名が入ってきた。
合計 5 名。家賃 7 万円+駐車場 8 千円。そして、消耗品台 1 万円。ようやくこれだけは支払えるようになった。
月謝は合計 10 万円。それでも、機械のリース代の 5 万円はまだまだ払えない。コンサル料も 5 万円も。ましてや家族の生活費は払えなかった。
不安になった。当然、朝は近くのパナソニックの電子レンジ工場でアルバイトをしていた。時間は朝 7 時~午後 3 時まで。これもちゃんとおいしいご飯を食べるた
めだった。
駅近くなのに私の塾はまだまだ知られていなかった。私はいろいろやってみた。オープン前は印刷されたチラシを持って 1 件 1 件。近所の周りを挨拶に行った。
(ピンポーン)
私 「こんにちは」
相手「はい」
私 「今度筒井の駅前にオープンしました学習ジム・コーチと言います」
相手「ごめんなさいうちは子どもはいないので」
(ピンポーン)
私 「こんにちは」
相手「はい。どちらさんですか?」
私 「近所にオープンした学習ジム・コーチと言います」
相手「結構です(ガチャ)」
そんなことを繰り返した。とにかくチラシはまいた。それでも集まらなかった。
私が犯した大きな間違い
今から考えると私は全てにおいて大きな間違いを犯していた。それはお金の使い方。
そして、時間の使い方。結局は失敗するお金の使い方、時間の使い方を一生懸命にやっていただけだったのだ。
例えば、当時はコンサルタントの先生に作ってもらったチラシは大手のチラシをまねたものだった。
それは「何々システム」というシステムを前面に打ち出したどこにでもあるチラシ。
このチラシはまけばまくほどお金を回収できるだけの効果はなかった。最後にまいたチラシでは 10 万円をかけて 1 件集まれば良い方だった。
たぶん、今同じチラシを巻いても集まることはないだろう。それだけ間違っていたのだ。
また、私はどうでもいいようなことに時間を割いていた。そして、経営コンサルタントの先生にもくだらない質問をよくしていた。
私 「先生、観葉植物は置いた方がいいでしょうか?」
私 「先生、椅子はもっと良いものに変えた方が、勉強に集中できるでしょうか?」
私 「先生、保護者の方が来たら、お茶を出すために何か用意はした方がいいでしょうか?」
今から考えると本当に馬鹿な話だと思う。というのは心配するほど教室には生徒がいなかったからだ。
こんな相談は生徒がたくさん集まってから考えればいいことであって、当時の塾にはたった 3 名の生徒しかいなかったのだ。
そろえた 10 台の機械、10 脚の椅子のすべてが使われることがなかったからだ。
リストラでアルバイトがなくなくる
自分にとって都合の良いことは続かなかった。当時アルバイトをしていて近所の松下電器でリストラが始まった。
松下電器の業績が悪化しため外注してものを内製化することが決まった。私がやっていたアルバイトは松下電器の外注先のアルバイトだった。
その仕事がなくなるのだ。派遣の仕事でよくあるのが。突然の首切り。これは何度か経験した。
実は塾をする前もシャープで関係の協力会社で働いていた。そのときもこんなことがあった。
派遣先「堀さん、ちょっと来てくれる」
私 「はい」
事務所に連れて行かれる
派遣先「悪いけれど8月で今やっている仕事が終わるのでこの仕事は7月で終わりね」
私 「はい?」
派遣先「あっ堀さんは、残務処理があるので1か月延ばすので8月までね」
私 「はい。わかりました」
派遣ではこんな経験を何度もした。その話を聞いて、家族に伝えるのがつらかった。苦しかった。安定した仕事がしたかった。
塾をすれば安定して収入が入ると思ったものの、それ以上に安定していなかった。
アルバイトを辞める
塾から近かったからアルバイトをしていたのに、今度は自動車で40分もかかる場所に移動になった。今まで歩いて5分だったのが、今度は自動車で40分になった。
結局そのアルバイトは辞めた。今度は市場内での袋詰めの仕事に入った。ただ、その会社では経理のメンバーも不足していたので経理を手伝うことになった。
そして、仕事は朝7時から。気分的には楽だった。ここでも集客をした。ここに働きに来ているお母さんと中学受験の話をしていた。
そして私の塾の話をした。興味をもらってもらった。そして、1人の女の子が入会した。
あの2人が来た。
塾をオープンして1年目は何とか20名までに増えた。でも不安要素が大きすぎた。1年目は生徒が入ったもののその中でも170名いる中学校で下から10位以内の子が5名もいたのだ。
そして、特にその中で2人の生徒が入ってきた時から塾の雰囲気は変わった。もちろん、成績が低くても指導はできた。
ただ、問題は「うるささ」だった。5人のメンバーが塾に来ると途端に塾全体がうるさくなるのだ。
「がはは」
「おい。やめろよ」
「ギャー」
「おい、それ貸せよ」
「おまえそんなんもできないのかよ」
「バーカ」
そんな騒がしい状態が続いた。今ならそんなことはないが入塾するときに制限すべきだった。
当然、注意はする。だが、すぐに騒がしくなる。そして、また注意。だんだん注意が、叱るに変わっていった。そして、最後には怒るに変わっていった。
先生の顔が怖い
騒がしい生徒が来てから「怒る」という言葉が日常になったとき、他の真面目な生徒から
「塾を辞めます」
と言われた。真面目で期待の大きかっただけに落ち込んだ。そして、辞めるときにその子がポツンと言った。
「先生の顔が怖い」
と。そして、真面目な子から1人。そして、また1人辞めていった。さらに騒がしかった生徒も辞め始めた。
また、1人。また1人。まるで私の塾が潰れていくのかを暗示するように。もうダメだと思った。
生徒が騒ぐ。真面目な子が辞める。そして、騒いでいた子が辞める。そんな負のスパイラルが続いた。そして、さらに大きな問題があった。
もっと最悪のことが起こった
さらにもっとまずい状況があった。それは、それは、中学3年が生徒のほとんどを占めていた。
だから、その中学3年生が卒業してしまうのは残った生徒はたった3名になってしまうのだ。
「このまのまでは確実に塾はつぶれる」
そう感じていた。焦りはあった。だが何から手をつけていいのかわからなかった。「お金もない」「時間もない」「方法がわからない」からだ。
廃業の「覚悟」
結局私は次のような結論に達した。それは
「この1年でやれるだけのことはやってみる。そしてダメなら塾を廃業する」
と。当時は、「仕事」「仕事」と言いながらもそれでも、お酒を飲んでいた。また、帰りに漫画を立ち読みしていた。
そのすべての時間を削って「生徒集め」に時間に割くことにした。そして、それが最後のかけだった。
もちろん、それまでも決して何もしなかったわけではなかった。生徒から卒業名簿も借りた。そして、それをコピーして同級生のご家庭にDMも送った。
また、ポスティングもやった。
決意の日。朝5時。
辺りは暗闇の中。静まり返っている。塾の近所に車を止める。ドアの閉まる音だけが響く。
吐く息も白い。まずは近所の住宅街に向かって歩き出した。
私ができることは、朝のアルバイトまでのチラシをまくこと。当時の私はその時間しか「チラシを入れる」ことはできなかった。
お金のなかった私は以前作ってあったチラシを片手に郵便受けにチラシを入れていく。
急いで歩きながら。1件。そしてまた1件。
「カタン」
「カタン」
「カタン」
と夜明け前の寒空に郵便受けのふたが閉まる音だけが響きわたる。風は冷たい。
「どうか生徒が集まりますように」
そう祈りながらポストにチラシを投函。
そして、その隣の家のポストにも・・・。
黙々と投函していく。
チラシが無くなれば車に戻って、チラシをかかえてまた投函。
朝が明けてきて、アルバイトに行く時間になると辞める。そして、アルバイト先へ。
その夜帰宅。塾が終わってから帰宅すると今まで投函用のチラシを折る家内と息子がいた。
家内の言葉は
「どうだった?」
と。私は首を振る
「ううん」
問い合わせはその日はなかった。家内の側ではチラシ折りの手伝いをしてくれていた息子が疲れたように寝ていた。
そして、次の日も次の日も、朝5時からチラシを入れるために塾へそして、1件1件と投函・・。
帰宅すると家内はいつものように私に聞く。
「どうだった?」
と。私はただただ、いつものように
「・・・」
と首を振る。次の日も。そしてまた次の日も。
「どうだった」
「・・・・」
とそんなことが2日。3日と何日も続いた。そして。とうとう残っていたチラシは底をついた。チラシをまき終ったあとの問い合わせは
「ゼロ」
だった。
そして、やれることはすべて無くなった。その年にはほとんどの生徒が卒業してしまうので時間はない。
そして、私のオフラインの塾が終わった瞬間だった。
結局は、私の塾は一時はなんとか 20 名まで集まったものの、その後は最初の生徒数の 3 名まで落ち込んだ。潰れた。つらかった。
希望の光。オンライン学習塾
リアルの塾が潰れてしまった。が、私にはたった1つの希望があった。それはインターネットビジネスだった。
塾をしていたとき同時にインターネットビジネスもスタートさせていた。私がインターネットビジネスをスタートした理由はただ1つ。それは「お金がかからなかった」から。
今ではお金をかけているが、当時はほとんど無料でやっていた。サイトも集客も、運営もすべて無料だった。
当時塾がうまくいってないとき、私は生活費で資金の状態はカツカツだった。本当に自転車操業という言葉がピッタリだった。
お金を毎月回していた。月謝が入った。支払いにあてる。また月謝が入った。支払いにあてる。そんな生活。
生徒が持ってくる月謝が待ち遠しかった。そんな中で新しいビジネスをスタートする資金はなかった。
使えるのがインターネットだけだった。インターネットはプロバイダー料5000円。それさえ払えばスタートすることができた。
そして、インターネット学習塾をスタートするまでの話は割愛するが、その中で様々な成功法則を学んでいた。
それを実行することで確実に収入を得られることができた。そして、今でもできている。
インターネットビジネスにはある1つのルールがあり、それをマスターすれば失敗を最小限に抑えることができてスタートすることができる。
そのいくつかのルールをマスターすることでインターネットビジネスはうまくいく。それはこんな内容だった。