ABOUT US
私達について
【ムクナキング つつみ農園 園主 堤 正祥(つつみせいしょう)よりみなさまへ】
ムクナの魅力に取りつかれたわたしは、
人生、もうひとがんばりして、
困っている人や必要な人に、
このムクナの力を届けたい
地域の人たちのお役に立ちたい、
と思うようになりました。
さまざまな植物と向き合ってきた60余年の経験は、
ムクナ栽培にも生かされています。
5年前から毎年毎年、
栽培方法を少しずつ変えながら、
より良いものがつくれるよう、
取り組んでいますが、
気候が不安定なこのごろ、
難しいところがいろいろあります。
それでも、後期高齢者の年になった
78歳のわたしが、なぜがんばって、
ムクナ栽培に取り組んでいるのかというと…
(つづく)
【江戸時代から現代によみがえるムクナ豆ものがたり】
ムクナ豆が日本で栽培されるようになったのは、
ここ5〜6年のこと、と思っておられる方は多いのですが…
みなさんは、ムクナ豆が江戸時代に「八升豆(ハッショウマメ)」と呼ばれて食されていたことをご存じですか?諸説あるようですが、1本の木からたくさんの実がなることを指してそう呼ばれていたようです。
さて、実は、八升豆の名前が最初に登場した日本の文献は、江戸時代に書かれた『本朝食鑑』(1697 年元禄10年)です。
「八升豆 此 藜豆(れいず・・・インゲンマメのことですね)也」という記載があり、今から300年余り前には、食糧として食べられていたことがわかります。
余談ですが、300年以上も前に書かれた本朝食鑑が今の時代、デジタルで誰でも見られるようになっています。
それを興味深く見てみると、稲や粟、饂飩、胡麻などの記載があるのですが、なぜか八升豆のところは、附録という文字の後に出てくるのです。大豆や黒豆、赤小豆など豆の種類がいくつか出てきて、刀豆の後、附録と記載された下に、やっと八升豆が出て来ます。豆として一番最後に扱われる意味は・・・おそらく他の豆と比べてアク抜きや調理に、かなりの時間と労力を要したからではなかったかと思われます。
ご存じの通り、江戸時代は食べ物が豊富にあったわけではありません。
日常生活では、今では考えられないくらい質素なものが食べられており、米が不作の年は、庶民は飢え死にする者がたくさんいたのです。
そんな食糧事情の中、栽培が簡単で大量に採れる八升豆はいざというときには特に重宝されたに違いありません。
ただ、前述のとおり八升豆は、調理にとても手間暇がかかるのものなのです。
それでも、江戸時代は現代とは生活様式が全く違いますから、コトコト、コトコト、と気長にアクをゆでこぼしていたのではないでしょうか。
Lドーパが含まれているところが、八升豆の魅力なのですが、実はその成分はたくさん摂りすぎると、下痢や吐き気やめまい、その他さまざまな症状が起こってしまいます。江戸時代の人たちは、体験的にそのことを理解して調理し、上手に食べていたのでしょう。
昔の人はすごいです。
その時代の人たちが、どのように食していたのかという記録は残っていないようなので、残念ながら詳しいことを知ることはできませんが、当時の様子を想像すると、八升豆は貴重な食料として食されていたのだと思います。
ところが、いつのことからなのでしょう。
生活様式が大きく変わった明治時代のころからなのか。
つい最近まではほとんど食されなくなり、八升豆は、長い間、絶滅したのと同じ状態にありました。(つづく)
ムクナの魅力に取りつかれたわたしは、
人生、もうひとがんばりして、
困っている人や必要な人に、
このムクナの力を届けたい
地域の人たちのお役に立ちたい、
と思うようになりました。
さまざまな植物と向き合ってきた60余年の経験は、
ムクナ栽培にも生かされています。
5年前から毎年毎年、
栽培方法を少しずつ変えながら、
より良いものがつくれるよう、
取り組んでいますが、
気候が不安定なこのごろ、
難しいところがいろいろあります。
それでも、後期高齢者の年になった
78歳のわたしが、なぜがんばって、
ムクナ栽培に取り組んでいるのかというと…
(つづく)
【江戸時代から現代によみがえるムクナ豆ものがたり】
ムクナ豆が日本で栽培されるようになったのは、
ここ5〜6年のこと、と思っておられる方は多いのですが…
みなさんは、ムクナ豆が江戸時代に「八升豆(ハッショウマメ)」と呼ばれて食されていたことをご存じですか?諸説あるようですが、1本の木からたくさんの実がなることを指してそう呼ばれていたようです。
さて、実は、八升豆の名前が最初に登場した日本の文献は、江戸時代に書かれた『本朝食鑑』(1697 年元禄10年)です。
「八升豆 此 藜豆(れいず・・・インゲンマメのことですね)也」という記載があり、今から300年余り前には、食糧として食べられていたことがわかります。
余談ですが、300年以上も前に書かれた本朝食鑑が今の時代、デジタルで誰でも見られるようになっています。
それを興味深く見てみると、稲や粟、饂飩、胡麻などの記載があるのですが、なぜか八升豆のところは、附録という文字の後に出てくるのです。大豆や黒豆、赤小豆など豆の種類がいくつか出てきて、刀豆の後、附録と記載された下に、やっと八升豆が出て来ます。豆として一番最後に扱われる意味は・・・おそらく他の豆と比べてアク抜きや調理に、かなりの時間と労力を要したからではなかったかと思われます。
ご存じの通り、江戸時代は食べ物が豊富にあったわけではありません。
日常生活では、今では考えられないくらい質素なものが食べられており、米が不作の年は、庶民は飢え死にする者がたくさんいたのです。
そんな食糧事情の中、栽培が簡単で大量に採れる八升豆はいざというときには特に重宝されたに違いありません。
ただ、前述のとおり八升豆は、調理にとても手間暇がかかるのものなのです。
それでも、江戸時代は現代とは生活様式が全く違いますから、コトコト、コトコト、と気長にアクをゆでこぼしていたのではないでしょうか。
Lドーパが含まれているところが、八升豆の魅力なのですが、実はその成分はたくさん摂りすぎると、下痢や吐き気やめまい、その他さまざまな症状が起こってしまいます。江戸時代の人たちは、体験的にそのことを理解して調理し、上手に食べていたのでしょう。
昔の人はすごいです。
その時代の人たちが、どのように食していたのかという記録は残っていないようなので、残念ながら詳しいことを知ることはできませんが、当時の様子を想像すると、八升豆は貴重な食料として食されていたのだと思います。
ところが、いつのことからなのでしょう。
生活様式が大きく変わった明治時代のころからなのか。
つい最近まではほとんど食されなくなり、八升豆は、長い間、絶滅したのと同じ状態にありました。(つづく)