春・いやさか   スピリチュアルライフコーチ 平野道代 

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中秋の名月に「ひとつ」手放しました

こんばんは。人生の最適化を応援する
スピリチュアルライフコーチの平野道代です。

本日は中秋の名月。おまけに満月です。
満月は手放したい事を手放せるとても良いタイミングなのです。
なので、私も「ひとつ」手放すことにします。

私は、5人兄姉妹の4番目に生まれました。上から兄・姉・姉・私・妹です。
4番目に生まれた子供は
俗にいう「忘れられた子供」なのだそうですよ。

この話を聞いた時、とても納得しました。

なぜなら、5人の中で私だけ
新しい洋服も、学校の道具も買ってくれず、お下がりばかりでした。
学芸会でハイソックスを穿きたくて何度もお願いをしたのに
買ってきてくれたのはソックス。私だけがソックスだった学芸会。
それに私だけ「おやつ」を貰え無かった事もありました。

一度母に聞いたことがあるんです
「どうして妹には洋服を買うのか?」と
そしたら 「お前が着ている服はもう着れないから」と。
そしてよく母から殴られていたのも私だけでした。
「どうして妹にリコーダーを買ってあげるのか?」と
そしたら 「学校から同じものを買うように言われたから」と

「どうして私をぶつのか?」と
「お前の様な理屈屋は、大きくなったら赤軍派(に入るようになるから」と

これは殴られるよりもかなり痛かったです。

こんな風に母親から扱われた私。
この言葉を聞いた時に
私は母を捨てました。

どうせ、私の事など興味も関心も無いならば
私など どうでもよい存在というならば
「好きに生きようじゃないか」と。

この時から私の意識は外に向き始め
外に居場所を求めはじめました。

こんな私を師長は「天真爛漫」と評していました。
天真爛漫と言われてもね・・・。
なぜなら、私は
安全な家族という居場所を持っていなかったのですから
不安定この上ありません。

私は長い間、誰かと一緒に居ても一緒にいる感覚が持てず
常に人と意識が少しずれているので孤独でした。
透明な箱の中に居るような感覚でした。

そんな私に転機が訪れたのが24歳の時でした。
職場の先輩から アメリカ発の自己啓発セミナーに誘われ参加。
そうです。このセミナーで気が付いたのです。

言いたいことを 
言いたい相手に 
言いたいだけ 
言わなければ
私のこの物語は終わらい  という事に。

私が母から受けた数々の暴力に傷つき寂しく独りぼっちだった感情を
母に向かって言わなければ
私はいつまでたっても 誰と一緒に居ても
独りぼっちのままだと。

24歳の秋、私は母に手紙を書きました。
私が受けた数々の出来事をすべて記して。
そして 投函。

投函した後、3日経ち、
突然自分の中に
『あれはもう過去の事。既に終わっている。母を許してあげよう』と。
それで母へ手紙を読まないようにと電話をしたのですが
時遅く 母は既に読んでしまっていました。

「これにはちゃんと返事をしないとと思っていた。」と。

そして
「お前はいつも何故?どうして?と納得するまで食い下がってくる。
余りにしつこかった。だから手が出た。
買ってやらなかったのではなく 買ってやれなかっただけ。
妹の時は兄ちゃんたちが助けてくれていたから買えた。
お前は小さいころから勉強が好きだった。姉ちゃん達の様にノートを鉛筆を買ってくれとせがむ。
でも、姉ちゃんのノートも買えないでいた。それ位、その時はお金が無かったんだよ。」と

私が24年間真実だと思っていた出来事は
母から見た真実とは違っていました。

母親と対峙するのはとても勇気が要りました。
そして母は謝ってはくれませんでしたが母の真実を知り、
第1回目の癒しが始まったのです。

第1回目の癒しと書いたのは、残念ながら1回では全てが癒されはしなかったと言うことです。
あまりに長い間、母から受けた仕打ちを反復繰り返し、
深く私の中に刻み込んできたからなのです。

24歳で初めてこの物語を止めることはできましたが、
その影響は大きく
60歳になるまでに複数回、母との対決があり、やっと手放せることが出来ました。

第2回目以降の対決は次回にお話ししたいと思います。
今日も最後までお読みいただきありがとうございます。

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