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メールマガジン バックナンバー
第8号 ネエヤの部屋
おはようございます!
シュンちゃんエニちゃんこと、
児玉俊一&恵仁です^^
先週のメルマガも、
「Gメールの受信トレイではなくプロモー
ションに入っていた」というかたが
いらっしゃいました。
毎週火曜日の配信ですので、
Gメールでご覧になっているかたで、
「届かない!」という場合は、受信トレイ
以外のご確認もお願いいたします。
次男の寧(ねい)が
「姐(ねえ)やの部屋」の改装を始めました。
家のなかのリノベーションは3ヵ所目。
心美(こごみ)の勉強部屋(兼寝室?)に
するそうです。
広さは12畳あります。
母屋の東南端にあって、中2階。
天井は西から東に向かって、斜めに
低くなっていきます。屋根の傾斜が
そのまま反映しています。
この部屋には戦前、新潟の上越地方や
奥信濃(今の北信濃?)の豪雪地帯から出稼ぎ
に来た姐(ねえ)やが住んでいたそうです。
当時の農家は赤貧(せきひん)だったそう
ですから、口べらしのためもあっての
子守り奉公でしょうか。
10歳ぐらいで故郷を出てきていたそうです。
父の話によると、当時の我が家は
村長や産業組合(今の農協)の職務以外に
養蚕(ようさん)もやっていたので、
私の祖母は家業の陣頭指揮で忙しく、
日中、おさな子の面倒は姐(ねえ)やが
見ていたそうです。
10歳だと義務教育の期間中なので、姐やは
昼間、幼児を背負い小学校に通っていたとか。
父は「そのお陰でオレは小学校に2回、通う
羽目(はめ)になった」と言っています^^
大正11年生まれで現在98歳の父は
男5人、女1人兄妹の長男なのですが、
戦中生まれで一番下の叔父を除く全員に
姐(ねえ)やがついていたとのことでした。
そのため姐(ねえ)やが同時に2人いた
こともあったそうです。
姐(ねえ)やの部屋は中2階になりますが、
部屋の下は土間になっていて、昔は台所と
呼んでいた場所です。
かつては煮炊きをしていたスペース
ということになるのでしょうか。
姐(ねえ)やの部屋の東は中庭に、
南はオモテの庭に面していますが、
西側の1階には、仕事部屋と呼んでいた
部屋があります。
父の話によると、住み込みの姐やや、
作男(さくおとこ)、通いの使用人などの
人たちが休憩をとる部屋だったそうです。
仕事部屋なので、繕(つくろ)い物や
ワラ仕事などをしていた部屋かと思って
いましたが、違っていたようです。
今この部屋には掘りゴタツがあって、
食事したりお茶を飲んだりする部屋として
使っています。
姐(ねえ)やの部屋の西側の2階には、蚕室
(さんしつ)が3つ連なり並んでいて、姐
(ねえ)やの部屋から階段で直結しています。
養蚕(ようさん)の仕事は、朝から晩まで
餌(えさ)となる桑の葉を蚕(かいこ)に
やったり、糞を片づけたりと、とにかく
過酷な重労働だったそうです。
姐(ねえ)やの部屋は中2階で、
1階の仕事部屋にも2階の蚕室にも
真下の台所にもすぐ行けたので、
小さな子を背負いながら、色々な仕事を
こなしていたんだろうと思い、父に聞いたら
お子守り専門だったとのことでした。
童謡の「赤とんぼ」のなかに
「十五で姐(ねえ)やは嫁にいき
お里の便りも絶えはてた」という一節が
ありますが、
10歳ぐらいでこの家に来たときは
まだ子どもでも、15ぐらいになれば
働き盛りになりかけで、
色々やらされていたのではないかと
思っていましたが、意外でした。
そんな姐(ねえ)やの部屋で、
いま8歳の心美(こごみ)は、
今後どんな風に育っていくのでしょうか。
15歳になったら「ドイツの学校に行く!」
と言って出ていってしまうのかな?などと
考えると、グッと込み上げそうになる
69歳の爺(じい)やと67歳の婆(ばあ)や
でした(^O^)
先週、撮影した4世代7人の集合写真です。
https://www.facebook.com/shunichi.kodama.5/posts/3780739238672607
姐(ねえ)やの部屋の写真と図面などです。
https://www.facebook.com/shunichi.kodama.5/posts/3776994829047048
それではまた!!
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