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風化させてはいけないこと

せめて、今日だけは
このことを綴りたい。

自分の中で、あの日のことを
風化させないために。

2011年3月11日。
あの日、私はアメリカにいた。
大学院に入るまでの間、
一人旅をしていた。

2011年3月13日。
たまたま入った帽子屋で、
お店のおばあさんが
こう声をかけてきた。
「日本、大丈夫?」

滞在していた宿にはテレビがなく、
何のことを言われているのか
そのときはよく分からなかった。

英語を聞き取れなかったのか、
とにかく、実感がなかった。

そのあと街を歩いていると、
号外が配られていた。

見出しには、
“Nuclear crisis worsens
as Japan agony grows”
と書かれていた。

急いでWi-Fiにつなぎ、
動画を検索すると、
津波の映像が流れてきた。

それでもまだ、
日本で何が起きているのか
うまく理解できていなかった。

2011年3月23日。
帰国した空港のテレビで
改めて映像を見た。

自分の国や大切な人たちが
大変な状況の中で、
自分は悠々と海外にいた。

その事実に、
やり切れない気持ちになった。

せめてもの償いという想いで、
2011年9月から
災害ボランティアに行き始めた。

当時の自分は、
「とにかく何か力になりたい」
という想いが強かった。

大学で販売されていた
レトルトカレーを募金代わりに集め、
仮設住宅に住む方や
ボランティアセンターへ
配って回ったこともある。

必死だった。
大学の学長のところへも行き、
支援の協力を懇願した。

今振り返ると、
自分の想いが先行した行動だった。

被災された方の視点で
十分に考えられていたかと言えば、
そうではなかったかもしれない。

だからこそ、
あのときの行動が
本当に良かったのかどうかは、
今でも両方の想いがある。

それでもあれから、
一年に一度、南三陸町へ
ボランティアに行くようになった。

瓦礫撤去などの
復旧作業の手伝いをしながら、
そこで出会う人や
モノ、コトに触れることが、
自分にとって大切な時間に
なっていった。

あるとき、
被災された方が
こう話してくれた。
「一番怖いのは、
長い月日が経って、
あの日のことを
忘れ去られてしまうこと。
この事実が風化してしまうこと。」

その言葉を、
今でも覚えている。

最近の南三陸町は
どんな景色なんだろう。

次に行くときは、
嫁と娘も一緒に連れて行きたい。

南三陸町の朝日を
見せてあげたい。

採れたてのワカメや
メカブを
食べさせてあげたい。

あの町の空気を、
感じてもらいたい。

そう思う。

あのとき街の様子を綴った写真集を
買っておいてよかった。

今日は、親子で語る日にしよう。

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