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イタリア トスカーナ アレッツオ駅

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イタリア トスカーナ アレッツオ駅はアルベルゴッティ男爵家への訪問の際に降り立つ駅です。イタリアの鉄道は高速鉄道以外は極めて時刻がいい加減で遅れるのが日常茶飯事です。いつも電光掲示板と睨めっこですが、見るたびに”遅れが15分””遅れが30分”〜〜〜と伸びて行きます。のんびりと待ちしかありません。

以下はWikipedia より
アレッツォ(伊: Arezzo 発音[ヘルプ/ファイル])は、イタリア共和国トスカーナ州にある都市で、人口約96,000人の基礎自治体(コムーネ)。アレッツォ県の県都である。
アルノ川中流に臨み、中世の美術で著名。

地理
位置・広がり
アレッツォ県南部のコムーネ。シエーナから東北東へ約48km、ペルージャから北西へ約57km、州都フィレンツェから南東へ約61km、首都ローマから北北西へ約180kmの距離にある。

歴史

アレッツォの歴史は非常に古く、アレッツォの分離集落であるオルモ で発掘されたいわゆる「オルモの頭蓋骨」 は旧石器時代のものだと推測されている。
古代ローマの歴史家ティトゥス・リウィウスは、アレッツォがエトルリアの首都 の一つであると著書に記している。
エトルリア同盟 (Lega dei popoli) の一部であり、ドデカポリス (it:Dodecapoli etrusca) と呼ばれる12の主要都市の一つに数えられている。エトルリア時代のアレッツォはサン・ピエトロの丘(現在はアレッツォ大聖堂がある)とサン・ドナートの丘(現在のメディチ家の城塞がある)の付近一帯を占めており、周辺地域との交易の中心でもあり、1万から2万の人口を擁したと推測されている。当時、数多くの神殿や聖堂があり、土器や青銅器、像などが数多く発掘されている。「アレッツォのキメラ」として知られる像や、エウフロニオスの作と推測されるヘーラクレースとテラモーンがアマゾーンと戦っている場面が描かれているクラテールなどがアレッツォ近郊から発掘された物として有名である。
古代ローマ共和国が勢力を拡大する紀元前4世紀後半には、アレッツォは次第にローマへ併合されていった。ローマ時代にはアレティウムの名で呼ばれた。紀元前283年ころにはガリア人が町を包囲した(アレティウムの戦い)。ポエニ戦争の頃になると、大量の穀物、武具といった軍需物資を供給するなど、ローマでも重要な地位を占めるとともに経済や農業の発達を見ることができる。帝政ローマにおいても、アレッツォはローマの第3の都市として栄えていた。農業活動が充実し、独特の押印模様のあるアレッツォ陶器は100以上の陶器製造工場が存在し、古代世界の至るところに輸出され町の主要な収入源となっていった。
キリスト教のローマへの浸透とローマ皇帝による迫害は、アレッツォも例外なく影響を受けることになる。紀元258年に殉教者した聖ロレンツォの記念碑が建てられ、中世に入ると、現存のサン・ロレンツォ教会[6]が再建立されることになる。また、アレッツォの司教であり今日ではアレッツォの守護聖人となっている聖ドナートは西暦362年8月7日に殉教している。

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