ABOUT US
私達について
2022年、地元である沖縄県那覇市首里に、沖縄そばと和創作のお店『首里うかじ』をオープンすることになりました。
実は『首里うかじ』は、6年前に一度閉店した『うかじそば』からの想いも引き継いだ冒険です。
店主は、これまで和食を中心に東京では、ミシュラン掲載の和食、大阪ではゴ・エ・ミヨ掲載の鮨店で経験を積んできました。業界での10年間の学びを、地元・首里で伝えていきたいと開業を決意したのが、2021年のことです。
そんな彼が、飲食の道へ進むきっかけとなったのは、父が経営していた『うかじそば』のサポートでした。2006年に創業した『うかじそば』は、本当にたくさんの方にご愛顧いただき、1号店を宜野湾市、2号店を那覇新都心に構え、美味しい沖縄そばの提供につとめていました。
いつか父のサポートをしたいと、高校卒業後に新たな沖縄そばの追求をすべく、ラーメン業界で修行していた弟も、2012年から『うかじそば』を手伝うことになりました。
親子で働く難しさもありましたが、地元の人・沖縄を訪れる人に美味しい沖縄そばを提供したい、という想いで走り続けました。そんな中で、父としてもこのままお店を手伝ってもらうことが息子の可能性を狭めてしまっているのでは、という気持ちと、弟としても「食を通じていつか地元に貢献したい」という想いから、弟は県外で幅広く経験を積むことを決めました。そして、2016年に『うかじそば』は、10年間の幕を下ろす形となりました。
そこからは色々なご縁があり、ミシュランやゴ・エ・ミヨに掲載されているお店で働く機会をいただきました。中でも大阪で創業間もない時期に働いていたお鮨屋さんは、今では数ヶ月以上予約の取れないほどになり、数多くの経験を県外でも得ることができた10年間でした。
【チャンスは一瞬】
そして2021年、首里城近くの古民家に物件の空き情報が舞い込んできました。
なかなか空き物件の情報が出ない土地ではありますが、ここ数年の観光事情の影響を体感した瞬間でした。
そして、このニュースを聞いたときに脳裏に浮かんだのが、首里城火災の映像。学生時代毎日のように見ていた大切なものが無くなった寂しさは、少なからず街全体にも影響しているのでは、と感じました。
少しずつ再建の作業は進んでいる中で、自らも首里の街が元気になる手助けができるかもしれない。想い入れのある首里の地で、自分が学んできたことを還元できないだろうか。コロナ禍で先行き不透明ではありましたが、この機会を逃してはいけないという想いから沖縄へ戻る決意をしました。
実は『首里うかじ』は、6年前に一度閉店した『うかじそば』からの想いも引き継いだ冒険です。
店主は、これまで和食を中心に東京では、ミシュラン掲載の和食、大阪ではゴ・エ・ミヨ掲載の鮨店で経験を積んできました。業界での10年間の学びを、地元・首里で伝えていきたいと開業を決意したのが、2021年のことです。
そんな彼が、飲食の道へ進むきっかけとなったのは、父が経営していた『うかじそば』のサポートでした。2006年に創業した『うかじそば』は、本当にたくさんの方にご愛顧いただき、1号店を宜野湾市、2号店を那覇新都心に構え、美味しい沖縄そばの提供につとめていました。
いつか父のサポートをしたいと、高校卒業後に新たな沖縄そばの追求をすべく、ラーメン業界で修行していた弟も、2012年から『うかじそば』を手伝うことになりました。
親子で働く難しさもありましたが、地元の人・沖縄を訪れる人に美味しい沖縄そばを提供したい、という想いで走り続けました。そんな中で、父としてもこのままお店を手伝ってもらうことが息子の可能性を狭めてしまっているのでは、という気持ちと、弟としても「食を通じていつか地元に貢献したい」という想いから、弟は県外で幅広く経験を積むことを決めました。そして、2016年に『うかじそば』は、10年間の幕を下ろす形となりました。
そこからは色々なご縁があり、ミシュランやゴ・エ・ミヨに掲載されているお店で働く機会をいただきました。中でも大阪で創業間もない時期に働いていたお鮨屋さんは、今では数ヶ月以上予約の取れないほどになり、数多くの経験を県外でも得ることができた10年間でした。
【チャンスは一瞬】
そして2021年、首里城近くの古民家に物件の空き情報が舞い込んできました。
なかなか空き物件の情報が出ない土地ではありますが、ここ数年の観光事情の影響を体感した瞬間でした。
そして、このニュースを聞いたときに脳裏に浮かんだのが、首里城火災の映像。学生時代毎日のように見ていた大切なものが無くなった寂しさは、少なからず街全体にも影響しているのでは、と感じました。
少しずつ再建の作業は進んでいる中で、自らも首里の街が元気になる手助けができるかもしれない。想い入れのある首里の地で、自分が学んできたことを還元できないだろうか。コロナ禍で先行き不透明ではありましたが、この機会を逃してはいけないという想いから沖縄へ戻る決意をしました。