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医食同源!日本食のチカラ 〜日本茶編②〜【東洋医学の智恵袋 vol.47】

こんにちは!
十条銀座「誠真堂鍼灸院」院長の東です。

前回のメルマガで
世界で初めて人間がお茶を口にした
「神農とお茶の出会い」の逸話を
ご紹介しました。

この逸話からも分かる通り、
中国では古くから
お茶は「解毒剤」として
用いられていました。

今から1200年ほど前に
日本に初めて伝えられた際も、
お茶は薬として持ち込まれたのです。

「お茶を一服」という言葉は、
これに由来すると言われています。

一方、現代の私たちが
「お茶する」というときは
カフェなどに行って飲み物を飲みながら
話をしたり休憩したりすることを
指しますよね。

そして、カフェのことを
「喫茶店」と言います。

お茶は出てこないし
メニューにすらないのに、喫茶店。

こんなところにも
古代と現代のお茶の位置づけの
違いが分かりますね。


◆日本茶の歴史①〜栄西と明恵〜

今から約1200年前の平安時代初期、
遣唐使や最澄・空海などの留学僧によって
日本にお茶が伝えられました。

歴史書「日本後紀」には、
「弘仁6年(815年)4月22日、
僧・永忠が嵯峨天皇に茶を煎じて奉った」
と記されています。

これが日本における
お茶に関する最初の記述です。

しかし、
日本にお茶が伝えられた当初は、
僧侶や貴族といった上流階級の人しか
口にすることができず、
大変な貴重品として扱われていました。

以前お話した梅と同じですね。

そして、お茶が普及し始めたのは、
鎌倉時代になります。

臨済宗の開祖である
栄西(ようさい)禅師が
禅宗を学ぶために宋に渡った際、
お茶の効能に感銘を受け
持ち帰ったのがきっかけです。

飲むだけで疲労が回復し、
気分が高揚する飲み物。

これを日本に伝えれば、
日本はより良い国になる!

栄西禅師は、そんな風に考えたのです。

お茶が初めて日本に伝わってから
約400年後の1191年のことでした。

茶の栽培技術まで習得し
宋から帰国した栄西禅師は、
禅宗の素晴らしさを日本に伝える際
お茶を活用しました。

宋の国では、
禅僧がお茶を飲んで心を整える
「茶礼(されい)」という儀式が
行われていたのです。 

栄西禅師は、帰国してすぐに
佐賀県脊振村にある霊仙寺の庭に、
お茶の種を日本で初めて蒔き、
日本にお茶を広める土台を作りました。

また、
禅の教えを伝えた僧・明恵(みょうえ)に
茶の功徳を説き、茶の種を贈りました。

そして、明恵禅師はそれを
京都の栂尾(とがのお)にある
高山寺に蒔いて栽培を始めたのです。

明恵禅師が蒔いた種から育ったお茶は、
いつしか茶園となって
発展することになります。

これが、現在の「宇治茶」の起源です。

そして、
茶の功徳を学んだ明恵禅師は
他の修行僧にも積極的に
茶礼を勧めました。

そのため、
栄西禅師は臨済宗の開祖として、
そしてお茶の始祖として
日本の文化史に大きな功績を残した
人物と言えます。

ちなみに、禅宗では現在も
茶礼を行っているそうです。


◆日本茶の歴史②〜栄西と将軍・源実朝〜

栄西は、禅宗とお茶を日本に広めて
日本をより良い国に変えようという
志を持っていました。

しかし、帰国から3年後の1194年、
京で禅の布教を行おうとしたところ、
既成教団からの圧力を受けて
禅の布教活動は禁止されてしまいます。

そのため、栄西禅師は鎌倉へと拠点を移し、
幕府の庇護を受けながら
布教活動を行うことにしました。

そして、1200年の源頼朝一周忌に、
栄西禅師が導師を務めるまでに
重用されます。

頼朝の次男である実朝が将軍になると
深酒癖があり二日酔いをしていた実朝に
良薬としてお茶を勧め、
同時に自身の著書である「喫茶養生記」を
献上し、大変喜ばれました。

ちなみに、この「喫茶養生記」は
「茶は養生の仙薬なり」という
冒頭文から始まるお茶の専門書です。

この栄西禅師の
将軍実朝への献上をきっかけに、
お茶は武士たちの間で
急速に広まることになります。

教養や信仰への意欲が高まる
鎌倉時代だからこそ、
茶は歓迎されたのです。

その後、足利義満や豊臣秀吉らが
宇治茶を庇護するようになり、
武家の間での嗜好品として
茶が普及していくことになります。

そして、
村田珠光、千利休といった茶人により
茶道が生まれ、完成されていきます。


◆日本茶の歴史③~緑茶の誕生~

江戸時代になると、
茶は幕府の儀礼に正式に用いられて、
武家と茶道は密接な関係を
持つようになります。 

このころ、庶民の間にも
嗜好品としての茶の文化が広まりますが、
庶民が飲んでいたお茶は、
茶葉を煎じた、いわゆる煎茶でした。 

しかし、1738年に宇治の農民、
永谷宗円(ながたにそうえん)が
長きにわたる研究を行い
新たな製茶法を編み出したのです。

それまで茶褐色をしていた煎茶が、
この製茶法を用いると
鮮やかな緑色になります。 

それまでの中国式製法のお茶にはなかった
鮮やかな色と甘味、香りを出すため
江戸市民を驚嘆させたといいます。

私たちが普段から口にしている
「日本茶=緑茶」の誕生です。

この新たな製茶法は「青製煎茶製法」、
別名「宇治製法」と呼ばれました。

その後、その新しい製法は
全国に急速に広まり、
日本におけるスタンダードとなりました。

そのため、現代では永谷宗円が
「煎茶の祖」と呼ばれています。

さらに1835年には、
現在も残るお茶製造会社である
山本山の6代目、山本嘉兵衛が
玉露の製茶法を考案し、
煎じて飲む茶は
さらに広まっていくことになります。 

その3に続きます。

誠真堂鍼灸院
東 洋史

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