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ブラザーズ珈琲物語1

はじめに
ブラザーズ珈琲との出会い

ブラザーズ珈琲物語
はじめに
私がコーヒーを始めたのはそんなに昔のことではない。未だ勤め人をしている時でコーヒーとは全く縁もないし、関心もなかった。大体コーヒーは体に合わなかった。営業やサポートで外回りをしている時、だいたい接待にはコーヒーが出る。出すほうはお茶やジュースよりコーヒーの方が良いと思い出してくる。それは私にもよく分かっていた。同僚たちは喜んで飲んでいた。私も美味しいコーヒーを飲みたいとは思っていたが、現実は全く違っていた。体に合わないのである。コーヒー1杯飲むと十五分以内にトイレに駆け込んだ。その当時の私には何故そうなのか全く分からなかった。同僚たちはお客様や出先の事業者たちと歓談しながら美味しくコーヒーを飲んでいたが私には耐えがたい時間だった。勿論、もっと若いときは美味しさは大して分からなかったが、お腹が痛くなることはなかった。三十代頃からコーヒー発作が起こっていた。もう最後のころにはコーヒーを見ることさえ苦痛であった。みんなはなぜこんな飲み物を飲むのか、何故私だけが腹痛が起こるのか?解決もしないまま、定年前の五十半ばになっていた時、米子では知る人ぞ知る事業家で政界でも結構顔の利くと思われる人が訪ねてきた。「松永さんは顔が広いから尋ねてきました」という。私はよそ者で、決して顔など広くはないが、確かにボランテアや奉仕活動などやっていたのでそのように思われたのかもしれない。「コーヒーが出来る人は知りませんか?」私は性格上知らないなどとは、言わない、言えない性質であったが、コーヒーだけは嘘が言えない。まったくもって知りません、分かりませんというしかなかった。その後その人は大きな体格がうな垂れて、寂しく帰ろうとした。私は思わず、あまりに寂しい背中を見て何故そんなに残念がるのかを尋ねた。その人曰く「自家焙煎コーヒーが出来る人を探している。そして、そのコーヒーは特別なコーヒーで昭和天皇皇后両陛下が鳥取県米子市に御行幸の時献上されていた職人の技を引き継いだコーヒーである」松永であれば老若男女各界階層知り合いがいるはずだと思ったというのである。とんでもない思い違いではあるが、わたしがそんなに評価されているのかと分かり、悪い気分ではなかった。しかし、先に書いた通りであった。何せ珈琲から逃げるようにしてきたこれまでの生活であったから致し方ないことである。「しかし後継者がいないという。成る程訪ねてこられた方の残念さが理解できた瞬間であった。そしてその時であった、何の根拠もなく、考えもなく私の口から飛び出した言葉があった。「私がやります。私に教えてください。」その人もビックリされたが、後でこの話を家族に報告した時も皆は、驚き、あきれ、罵声、罵倒、非難ごうごうであった。しかし、不思議だったのは、私は何時もだったら、カァーとなって言い返し、引っ込みがつかないようになるのが常であったが、自分でも不思議なくらい静かに、冷静で穏やかだった。この話が私に来たことが不思議で天命を感じた瞬間であった。これが、コーヒーとの出会いである。

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