いわせ接骨院「健康の玉手箱」

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いわせ接骨院『健康の玉手箱』Vol.30「パラレルワールド 松尾博一画伯との世界」

★★★いわせ接骨院『健康の玉手箱』Vol.30「パラレルワールド 松尾博一画伯との世界」★★★


  おはようございます。いわせ接骨院『健康の玉手箱』院長の岩瀬和仁です。

 ご来院されている方からリクエストを頂き『美の女神 松尾博一と生徒仲間たち』に寄稿させて頂いた2015年9月16日に記した「パラレルワールド 松尾博一画伯との世界」をそのまま掲載させて頂きます。

 リクエストを頂いた方は、フルート工房を経営されている方のご紹介でご来院されているプロの演奏家の方です。故・松尾博一画伯は、小児麻痺のうえ、度重なる交通事故により運動機能に障害をお持ちでしたが、懸命に最期の時を迎えるまで作品を描き続けました。リクエストを頂いた方も、運動機能に制限がある中で演奏活動をされる生き様に松尾画伯を重ね、思い出話をさせて頂きました。リクエストを頂いたプロの演奏家の方も大変難しい疾患ですが、幸いなことに日に日に改善されておられます。松尾画伯との思い出話に深く感銘されたとのことですので、お伝えさせて頂きます。


 追伸、いわせ接骨院では、お仕事を手伝って下さる方を募集しています。詳しくは、いわせ接骨院の受付までご連絡下さい。0475-20-4756

今現在は、岩瀬が一人の時間帯があり、この間は予約の制限をさせて頂いております。今しばらくご迷惑をおかけいたしますが、できうる限り施術をさせて頂いておりますので、何卒、ご理解ご協力のほど、よろしくお願いいたします。


「パラレルワールド 松尾博一画伯との世界」

「最初の出会い」 

 松尾博一画伯との最初の出会いは、1998年頃だったと思います。当時、私は、埼玉県所沢市の接骨・指圧愛泉道院の塾生で、生命力を最大限に引き出す施術の研修をしていました。松尾先生は、運動機能の障害を持っておられ、それは徐々に進行している様子でした。先生は、少しでも長く絵画を描き続けたいと強く想っておられ、そのために、ある御方のご紹介で、私の学んでいた施術を受けたいと希望されていました。

 当時、私は、自身の身体の不調をも救ってくれた施術法を郷里にも普及したいとの想いから、2001年に茂原市に接骨院を開業する計画を進めていました。茂原市での打合せの際に、先生のアトリエをお訪ねしたのが最初の出会いでした。

 私の心を鷲掴みにするような鋭い視線で「少しでも長く絵を描き続けたい」と訴えられたことを、今でもはっきりと覚えています。安定しない首を揺らしながら、覗き込むような鋭い視線の奥には、まるで穢れを知らない少年のような純粋さを感じるとても不思議な瞳でした。

その後、先生は制作中の油絵を描く姿を見せてくれました。車いすからご自分でなんとか立ち上がり、不自由な手に筆を固定させて、全身をくねらせながら、50号くらいの大きなキャンパスに向き合い、動かせるすべての機能を使って描くのです。片方の膝は曲がったまま、もう片方の肩は反対方向に傾き、またその反対方向に首を傾け、何とかバランスを取って、生命のすべてを集中して、しかしとてもゆっくりと制作の時間が流れていくのでした。

松尾先生は、所沢まで通院して施術を受けたいと希望されました。しかし、所沢までは車で3時間はかかるため、かえって体に負担を与え、また、当時の私の施術では、とても12回で、この頃の松尾先生の身体の状態に変化を起こさせることはできないと判断して、茂原市での開業を待ってもらうよう進言しました。

 

「施術開始」

 次の出会いは、茂原市にいわせ接骨院を開業して、しばらくたってからでした。2002年頃だったと思います。その頃のいわせ接骨院は、開業して間もなくて、まだ十分な体制も整っていなかったのに、連日予約がいっぱいで、私は超多忙の日々を駆け抜けていました。

 松尾先生は、通院するにも様々な手続きをする必要があって、すぐには施術を受けに来れなかったようです。介助なくしては、どこにも移動できなかったからです。介護ヘルパーさんの予約をしたり、交通手段を計画したり、どんな施設でどんな施術をするのか、主治医やヘルパーさんに報告する必要もありました。なんと松尾先生は、四肢の麻痺があって、一人暮らしをし、更に作品制作を続けていたのです。

 来院されて、施術に入るまで、トイレに行くにしても、移動するにしても、人の何倍も時間がかかります。問診しても、言葉が十分に聞き取れず、大変苦労しました。超多忙の私は、そのことに少しうんざりしていました。何回か通院していただくうちに、先生に、私の心のうち、さらには日常生活の焦燥、なにかすべてを見透かされていたのかもしれません。

 ある日、先生は私に「あんたも絵を描け」というのです。私は、子どもの頃から絵を描くことが大好きだったし、成人してからも、絵画展にはよく足を運んでいたので、忙しい合間を縫って、松尾先生のアトリエを訪ねるようになりました。そして、静物画などを先生と共にデッサンするようになったのです。その内に、先生の主催する「如の会」にお誘いを受けて参加するようになりました。如の会では、プロのモデルさんを招いて裸婦を描きました。

 私は、この体験からあることに気づき始めました。

 

「手の自由度と口の自由度」

 私は、毎日数十人、年間に延べて一万人ほどの患者さまの施術を、その当時で10年以上続けてきたので、人体の構造がよくわかっていると思っていました。だから、裸婦もそんなに苦労せずに描けると勘違いしていました。やってみると、これがとても難しいのです。

 松尾先生に描き方の指導を受けながら、何回もトライするうちに、あることを思いつきます。松尾先生は、絵を描く準備の段階をとても大切にしていました。何か、武士のような雰囲気を醸し出して、被写体を凝視し始めます。それはまさしく真剣勝負です。武士道には「鯉口を切る」という表現がありますが、まさしく真剣をさやから抜く瞬間の緊張感です。

 そして、被写体をどの角度から描くのか先生の心が決まると、それを酌(く)んで、私が車いすを移動させてもらうのですが、しかし、それがなかなか合わないのです。もうけんか腰でやり取りをしてなんとか満足のいく角度に車いすが決まると先生はすぅーっとため息をつきます。そして、今度はイーゼルを固定して…しかし、これがまたひと苦労…最後に、松尾先生の口に鉛筆を銜(くわ)えさせます。鉛筆は銜えやすいように紙を巻き、その上にサランラップをまくのです。この頃、先生は、もう全く手も動かせず、口で描いていました。

 私が思いついたのは、松尾先生が決めた場所と被写体を結んだ延長線上に、イーゼルを置いてデッサンをすることでした。ほぼ同じ角度から描くのです。この角度に座ると先生がどのように被写体を描いていくか見ることもできます。口で描いていくので、思ったように線さえもなかなか引けません。しかし、とても時間はかかりますが、だんだん裸婦像が浮かび上がってきます。その裸婦像は、本当に味のある力強い、松尾先生にしか描けない深みのあるものになるのです。

 私の描いたものは、何度描いても満足のいくものではありません。鉛筆という道具を動かす作業度合いは、格段に手を使っている私の方が効率もよいし、他の人がやっているように、ちょっと気に食わなければ、すぐに場所を移動して違う角度から被写体を描くことも可能なのです。松尾先生は、全く場所を移動することもできず、手も使えず、自由度のかなり制限された口で動かせる範囲で描いているのです。

松尾博一「冬麗」

 

「パラレルワールド」

 このような経験から、私は松尾先生のことをもっともっと知りたいと思うようになりました。休みの時にはアトリエを訪ね、同じ被写体をデッサンしたり、夜遅くまで語り合ったり、色々な場所へ連れ出してはスケッチをしました。夜遅くまで語り合って、アトリエを最後に出るときには、とても気を遣いました。天気予報も確認して、朝方までどんな気温の変化が想定されるか、それによって掛布団の種類やかける範囲を決めるのです。手足が動かせないので、暑くても寒くてもご自分で布団を動かすこともできないからです。

先生は音楽も好きだったので、帰る間際にカセットテープをセットして音量も程よくして再生します。火の元をしっかり確認して、施錠します。翌朝、ヘルパーさんが来るまで一人なのです。

そんなお付き合いの中から、私が気づいたことは、松尾先生は、たまたまいる場所、車いすから見える世界、布団から見える世界を、よく良く観察しているのだということ、自由度はとても狭いけれど、そこから見える世界を深く、広く、とことん観察しているのだと知ったのです。

逆に私は、自由度は広いけれど、見ているようで何も見ていない、まるでジェット機に乗って、近くの景色を見ているつもりで、実は何も見えていないのです。おなじ世界に居て、すぐそばにいる松尾先生と私とではまるでパラレルワールドのようなものだったのです。だから、私は松尾先生と過ごす時間は、何もかも忘れて、じっくり付き合うことにしたのです。パラレルワールド松尾博一の世界を垣間見ようとしたのです。

松尾博一画伯の絵画は、そのような深い観察眼から観たものを表現された世界なのです。だから、描く手段は限られていても観察している世界が広く深いから、あのような感動を呼び起こす作品になったのだと思うのです。


「デスマスク」

とても寒い日、アトリエから歩いて行ける阿久川に行こうと松尾先生が提案されたので、その日は阿久川のスケッチに行きました。いつものように阿久川と先生のイーゼルの延長線上に私はスケッチブックを構えました。その時のスケッチをもとに描いた油絵が、松尾博一画伯の油絵の絶筆となりました。その絵は、私の施術室のヤマサキテーブルの前に掲げています。仕事中に、その絵をチラッと見ては、松尾博一のパラレルワールドを思い返します。

先生は、肺炎をこじらせて呆気なく逝ってしまいました。よく見ておけといわんばかりにいつものようにカッと目を見開いたままのデスマスクを私たちに見せてくれました。私は、そのお姿を拝見して、こんなことを考えていました。「松尾先生なら、このデスマスクをどんなふうに描くのだろう」と。

葬儀の時には、すっかり力も抜けて、安心したようにたるんだお顔になっていました。たぶん、先生はようやく解放されたのだと私は思いました。不自由な身体からの開放です。自由に好きな所に足を運び、好きなものを好きなだけ自在に手を使って絵画を描いていると。

 晩年、如の会の時、先生は、何度か意識がおかしくなったことがありました。視線がどこかに飛んでしまい、苦しそうに、「ここに鉛筆を刺してくれ、ここにあるんだ、ここにあるんだ」というようなことをいいながら暴れようとするのです。ここというのは、眉間のあたりだと分かりました。眉間は、松果体といって脳の中枢があるところで、第3の目とも言われています。私はその時、必死に涙をこらえながら、先生を抑えつけました。そして、心の中で先生の気持ちを察しました。「描きたい絵が、じっくりと観察してきた被写体の構想が頭の中に一杯あるんだ、手も動かない、足も動かない、もう時間もないんだ」と。松尾先生はその頃、御自身の死期が近い事を知っていたのかもしれません。

松尾博一「阿久川」油彩絶筆

 

 「遺作」

 私は、松尾先生と出会う前までは、マティス、ゴッホ、ピカソの絵が好きで、本物をみたくてパリにまで行った程でした。しかし、松尾先生の絵画に見慣れてくると、不思議なことにマティスやゴッホ、ピカソの絵画がとても古いものに感じられてきました。それもそのはず、それらの絵画は100年以上も前のものなのです。

 現在に生きている私たちの世界は、やはり現在を生きている画家にしか描けないのです。着ている服も、風景も、人の心もすべて移ろいゆくもの、今を観察してきた松尾博一画伯の絵画は、やはり今を描いてきたのです。松尾先生亡き後も、世界は大きく変わりました。今なら、先生は何をどんなふうに描くのだろうと考えます。

 私も、今年で開業して15年、治療の仕事をはじめてから25年が経過しました。人の心も体も、どんどん変化しています。松尾博一パラレルワールドではありませんが、人体の研究は、絶え間なく、続けてきました。そして、よりよい施術法や観察法も、どんどん発見、開発され、あの頃からみれば、治療の成果も格段にアップしています。

 体の弱い人、高齢の方、障害を持った方にも、安心して受けていただける施術機器、バイタルリアクター(体の構造を正し、脳・神経系の機能を正常に復する施術、バイタルリアクトセラピーに使う機器)や、バイオレゾナンス実践機(生体共鳴で生命力を整えるドイツ振動医学で使用する波動送波器)も、バージョンアップを重ねています。そして、生命力を阻害している因子をとりのぞき、生命力を元の状態に発現させる健康医学も日々進化しています。

今なら、松尾先生の生命を阻害している因子をもっと取り除けると思います。そんな思いを胸に、今ご来院される方々の生命がより光り輝けるよう、日々真剣に向かい合っています。松尾博一画伯が、被写体と真剣に向かい合ってきたように。

 

 2015916日 いわせ接骨院 岩瀬和仁


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