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『ひとはナゼ立ち上がったのか』 西蓮寺です。

 
 以前、作業中に聞こえてきたラジオからのお話。

「ひとはナゼ立ち上がったのか」

ひとつの答え、
それは遠くを見るために立ち上がった。ひとには牙もなく固い皮膚もなく弱い生き物であるから、外敵から身を護るため危険を早く察知するために立ち上がったのだ。・・・なるほど。

ひとつの答え、
それは道具を握るために立ち上がった。動物として<か弱い>ひとは、生きていくため木を握り石を握り道具を扱い知恵を働かせなければならなかった。道具を握るために立ち上がったのだ。・・・なるほど。

そしてラジオが言った最後の答え、
ひとはナゼ立ち上がったのか、
   それは「大好きなひとと手を握るために」。

  出た~! そう来たか!   素敵な答えです、ひとと手を握るために立ち上がった。

『手はこころ』という好きな言葉があります。
「手」という文字のついた言葉は沢山ありますが、それを「こころ」と置き換えることが出来ます。

手紙・・それはただの紙ではなくて、こころがこめられた紙。
手弁当・・これは売られているものではなくて、誰かが誰かを思って作ったお弁当。
手当て・・痛いの痛いの飛んで行け~、痛みに辛そうな子に何とかしてやりたいと痛いところに手をあてて。手をそえ、こころをそえ。
手伝う・・ただ助けるのではなく、一緒にとのこころ寄り添わせて。
手加減、手料理、手厳しく、手塩にかけ・・・。

こう書きながらふと、「手」には「こころ」の意味ともうひとつ「一緒に」という思いも込められてあるかとも。

手紙。
手紙はわたしの元に届いた時から始まったものではありません。
届くずっと以前からわたしの事を思っていてくれるひとがいて、手紙を書こうとおもってくれて、言葉を選んで書いてくれて、封筒に入れてくれて、切手を貼ってくれて、ポストまで歩いて行ってくれました。その間ずっと思われていました。ずっと一緒にいてくれました。

だからこそ一度読んだから用事は終わって捨てるのではなく、何度も何度も読み返す事があり、そして何年も経ってから読み返す時にまたそのひとに出会えるのです。そこにはずっと「一緒に」という「こころ」があるからこそ、何度でも出会えるのです。
やはり「手紙」ひとつとってみても 『手はこころ』 です。

年賀状に<阿修羅像>の画を描きました。
(その画の写真は <住職あれこれ> に載せてあります。お恥かしながらよろしければこちらからご覧いただけます。 http://sairenji.jp/arekore )
三面六臂の異形の者と思う事なかれ。
手はこころ、の手が六本もあるのです。差し伸べる手を沢山もっておられます。  素晴らしい。
ひととひとが出会う事がはばかられるこの世情。
恐れと疑いで互いに裁き合うこの世情。
・・・にあっても、互いのこころをくみ取り合い 手を差し伸べ合う、その「手」をもっているわたし達である事までも忘れてはなりません。


 そして、やはりお坊さんは言いましょう。

「ひとはナゼ立ち上がったのか」 それは 
   『 手を合わすために立ち上がったのです 』

 ひとは、手を合わすために立ち上がりました。手を合わす、こころを合わす。
あのひとと こころを合わせる。 
 見えるひととも見えないひととも こころを合わせる時にわたし達は 胸の前に両手を合わせます。     
                     合掌。


                西蓮寺 住職 栗山知浩  拝 

   


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