2024.09.15
文久永宝
文久永宝は、文久2年に四文通用として制定、鋳造が開始されました。原材料である銅の値上がりに合わせ、寛永四文銭よりも軽量化されていました(4.5g→3.4g)。かつて寛永四文銭は銅で鋳造されていましたが、銅の大幅な値上がりによって材料が鉄に変更されました。しかし、鉄銭の評判はすこぶる悪く、ほとんど流通しませんでした。このような背景があったため、文久永宝では銅銭に立ち返ったものの、銅の高騰が続いていたため、軽量化という手段がとられました。
鋳造の担当として、一文銭は金座、四文銭は銀座という不文律があったため、文久2年初頭は銀座お抱えの銭座で鋳造されていましたが、年内に金座にも鋳造が命じられました。真文は銀座配下の深川東大工町銭座で、草文と略宝は金座配下の真崎・小菅の両銭座で鋳造され、慶応元(1865)年までに約33億4,300万枚がつくられました。
銭文は、小異はありますが基本的に3種類の書体で、真文(楷書)、草文(草書)、略宝(寳→宝)の3種です。また、銭文の筆者も判明していて、真文は若年寄・小笠原長行、草文は老中・板倉勝静、略宝は政事総裁・松平慶永(春嶽)が揮毫しました。
文久永宝 真文
文久永宝 草文
(参考文献:日本貨幣カタログ/ボナンザ 日本のコインなんでも百科 1976年6月号)