2024.09.14
天保通宝
天保6(1835)年に鋳造が始まったのが天保通宝です。背面に「当百」とあるように、100文通用と定められました。小判型をしており、背面下部には小判と同様に金座後藤家の花押が鋳込まれています。
金座主導で鋳造され、幕府にも大きな利益をもたらした天保通宝ですが、この発行は銭貨の価値下落を大きく後押しすることになりました。寛永通宝が流通し始めてから、時代が下るにつれて市中に寛永通宝が溢れるようになり、銭相場は下落する一方でした。
江戸時代初期には1両=4,000文と定められていましたが、天保年間には6,500文〜7,000文になり、幕末の慶応年間には1両=10,000文にも達しました。天保通宝は100文通用とされていましたが、実際の価値は寛永銭(1文銭)5枚分程度であり、寛永銭5枚を潰すだけで20倍もの利益を得られました。そのため、各藩はこぞって密鋳を行い、大量の偽物が全国で流通しました。
(参考文献:日本貨幣カタログ / Wikipedia)