2024.09.22
眼科学教室通信(1)私の修業時代〜研修 part 1
教室は、教授から講師までの指導スタッフ、研究に専念する研究員、研修に励む医局員の三つの階層で構成されていました。私は、昭和37年7月に入局、同期には視能矯正学の草分けのY氏もいました。当時の教授と助教授のコンビは絶妙で、この両先生による教室運営や教育と研究に対する理念と実践は見事なものがあったと思います。
助手(文部教官)の定員は12名だったと記憶しておりますが、それが三〜四年の任期で医局員に割り当てられたのです。その頃の眼科は志願者が少なく、東大でも2名から5名程度の新入局であったことがこのような助手の運用を可能にしたわけです。大学院にも制度はあったのですが、志願者が少ないことでその制度が形骸化したのは当然のことです。大学教官の任期制がようやく導入されようとしている昨今ですが、東大眼科は時代をはるかに先取りしていたのです。当時四十歳を過ぎても無給医局員に甘んじる人々がいた他の教室のことを見聞きするにつけ、眼科のあり方をありがたく思ったものでした。アルバイトや兼業はもとより厳禁でしたが、助手の手当はわずかではあっても物資や娯楽が乏しい時代のこと、生活するには十分で、安んじて研修に専念できたのは幸いでした。
出典:『落穂のバスケット(2001)』眼科学教室通信