眼科学教室通信(2)私の学位論文 part1

東大医学部を昭和36年3月に卒業、東大病院で1年間インターンとして内科や外科といった主要科目の実地修練を修了、37年7月に東大眼科に入局して医師としてスタートした。昭和40年6月までのまるまる3年間、臨床の全般をくまなく勉強することができた。その頃の医局生活のことは別に書いたことがある(1)。入局と同時に助手に採用され、医局旅行で遊びにいく以外のほとんど全ての時間を医局にどっぷりつかって厳しく修行することができた(現在にいたるまで、いわゆるアルバイトで生活費を稼ぐ、といった経験がまったくなかったのは幸運というしかない)。


当時の東大眼科では、数年の研修期間が終了すると助手を首にされて、外部の関連病院にいきながら研究に専念するというシステムになっていた。私は関東逓信病院にあてがわれたのである。当時の関東逓信病院はバックの電電公社(現在のNTT)の財政が豊かで、我が国では最も設備の充実した病院として評判が高く、古びた東大病院から行くと別世界であった。眼科は部長の戸塚清先生(元東邦大教授)の下に、私のように東大から派遣された若手四人であった(丸尾敏夫先生もおられて、私と同様に研究)。今では許されない好条件が提示されたのだった。つまり、正規職員に採用されて大学での助手の給料から五割もアップしただけでなく、診療は週に三日だけすればよい、あとは自由に研究の時間に使ってよいというもので、東大の研究生になって月・水・金は大学の研究室に通った。


出典:「落穂のバスケット」(2002) 大庭紀雄

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